ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

関連性を見つけることを意識する。

このブログの過去記事で、もう同じことを書いているかもしれないが、改めて書きたくなったので、書いてみる。

数学を例に・・・

頭の良い人というのは、物事と物事の間の関連性を見いだせる人のことではないか。

数学を例にして考える。

 

数学の問題に共通しているのは、

  • 求められている答えはどういうものか?
  • 与えられた条件は何か?
  • その条件から導き出せることは何か?

という3つのことを考えるということであると思う。

数学が得意な人というのは、最終的に求められている答えを導き出すためには、どういうことが言えなければならないか?という視点から、与えられた条件を答えを導き出すために必要な材料にするために筋道立てて変換していくことができる人なのではないか。

いいかえれば、「求められている答えは何か」「与えられた条件」「答えを導き出すために必要な材料」それぞれの間の関連性を見失わずにいることができる人のことではないか。

 

もちろん、最終的な答えを導き出すためには、こういうことが言えなければならない、ということは知識として持っていなくてはなかなか導き出せるものではないので、関連性だけの問題だけではないようにも思える。

しかし、そもそも、その知識というものも、元をたどれば、全て「これこれこういうことがいえるから、じゃあ次にこういうこともいえるよね」という関連性を紐解いていけば導き出せるものだ。

最終的には、人為的に「これはこういうことにしましょう」という取り決めにならざるを得ないのだが、それを数学では「公理」と呼んでいる。

つまりすべての数学の問題は、全部なにかしらの形で「公理」へと繋がっている。

「公理」から「公式」や「定理」が生まれる。公式や定理は毎回いちいち公理から求めていては効率が悪いので、「こういうときはこういうふうになるよ」とあらかじめわかっている部分を省略するただの「ワープ装置」だ。

数学が苦手になる人はこのことがわからずに、ひたすら「ワープ装置」を暗記しようとする。しかし、本当に重要なのは、知識とか暗記力ではなくて、公理から答えまで伸びる筋道を立てる「論理力」だ。暗記、というのはその筋道をブラックボックス化してしまう行為、つまり、筋道を見えずらくしてしまう行為なので、ますます数学が訳のわからないものになってゆく。それは前後のつながり、関連性が見えずらくなってしまうことによって起こる。

数学が得意になるために必要なのは、「これこれこういうことが言えるなら、じゃあ次にこういうことも言えるよね」と、どんどん関連付けていく能力と、そして最終的に何が求められているのかを判断する能力、そしてそれを言うためには何が必要なのか?を逆算する能力だ。

そしてそれらは全て、「関連性」という言葉を意識することで磨くことができるのではないか。

 

頭の良い人は関連性を見つけ出すのが得意

数学を例として考えてきたが、この「関連性」に注目するということは面白く生きていく上でキーワードとなることではないかと思っている。

例えば、人間関係を築くのが抜群にうまい人というのがいる。

こういう人も「関連性」を見つけるのがうまい人だ。

なぜなら、人間関係を築くということは、自分と相手との間になんらかの関連性を持つということに他ならないからだ。

たとえば、「出身地はどこですか?」という問いは、初対面の場合によく使われる常套句であるが、それはその人ともし同じ出身地ならば一気にその人との間に「同じルーツを持っている」という大きな関連性を見いだすことができる問いだからだ。しかし仮に全く違う出身地であったとしても、人間関係が得意な人は臆さない。なぜならどうにかしてその地名と自分とを「関連付け」ようとするからだ。例えば、「旅行でそこに行ったことがある」とか「ああ、あの有名人の出身地ですね!私あの人の大ファンなんです」とか。

同じように、「好きな食べ物は?」「趣味は?」「兄弟は何人?」「好きな本や映画は?」といった質問は全て、「関連性」を見つけ出そうとする試みであると捉えることができる。

では仮に、まったくそういった関連性の見出せない人と接した場合、そういう人はどうするのだろうか。そういう場合には「とにかく聞く」のだ。そして、「なぜその人がそういう考え方をするのか?」を理解しようとする。そうすることで、「ああ、この人はこういう考え方をするのか」ということがわかり、そこからなにかしらの関連性を引っ張り出す糸口となるのだ。

そして、仲の良い人を思い浮かべればすぐにわかるように、「関連性」を持つために一番強力なのが、「同じ体験を共有する」ことであると思う。同じ体験をすれば、必然的にその相手との間に強力な「関連性」が生まれる。

 

なぜ、「関連性」なのか?

ところで、ここまで延々と「関連性」を見つけることを述べてきたが、なぜ、「関連性」を見つけることが重要なのだろうか。

 

結論からいうと、関連性を見出さなければ、人は生きていくことができないからだと思う。

 

なにか一つ仕事をするのでも、その仕事をすることによって何が起こるのか?という関連性をわかっていなければ、意義も見出せず、消耗するだけである。

どこかの国では昔、拷問として、ただひたすらに穴を掘らせては埋めさせるという無意味な仕事を延々と続けさせる、ということを行っていたらしい。拷問になるほどに、関連性が見出せないということは辛いことなのだ。

 

食べ物を食べるという行為も、無意識的に生命維持活動をするためのエネルギーを得られる、という関連性がわかっているから行われるのではないか。仮に人体に未知のウイルスが悪さをして、食べ物から一切のエネルギーを得られなくしてしまうようにしてしまったとする。そうなれば、人はものを食べることをやめてしまうのではないか。というより、食欲がない時というのは、何を食べてもそこから(十分に)エネルギーを引き出すことができない、関連性を持たせることができない、という身体からのサインと捉えることができる。

 

究極、「なぜ生きているのだろうか?」という問題にも、「関連性」という言葉が関わってくる。

根本的には、人間は「なぜ生まれてきたのか」はわからないと思う。しかし、「なぜ生きているのか」ということには人それぞれで答えは違うだろうが、なんらかの意味を持たなければとてもやっていけるものではない。その意味を持たせる上で、必ず人は自分と、広い意味での「世界」との関連性を求めざるをえない。

自分がいて、この世界とどういう関連性を持たせるのか、ということを無意識的にも考えているからこそ、人は生きていくことができるのだと思う。

世界となんの関連性ももてない、と思った時ほど、辛いことはないだろう。下手をすれば、「それならいっそ、悪いことでもいいから、世界と関連性を保ちたい」という考えからとんでもない凶行にうつることもありうる。そして実際に、過去の凶悪犯罪の犯人がそういう意味の発言をしていたりする。それほどに、人は関連性を求めるといえるのではないだろうか。

 

ながながと書いてきたが、結局言いたいことは、生きていく上で、何事でも、「これはどういうことと関連づけられるのだろうか?」ということを意識するだけで、世界は面白くなるのではないか?ということだ。どんな些細なことでも、ある物事と物事との間に関連性を見いだすことができたとき、「なるほど!」という感動が起こるはずだし、少しでも世界と自分との関連性が強くなるのではないだろうか。

そして、すべての学問、勉強というのは、この「関連性」を見つけるための視野を得る行為であると捉えると、とても面白い。どんな学問でも、結局求められているのは、「関連性」を見いだすことではないだろうか。つまり、学問をするということは、世界をみる視点を増やす行為であり、つまり自分と世界とを結びつける糸口を増やす行為、関連性を構築する行為であるとも捉えられる。だから、どんなことでも興味をもったならば、とことんまで突き詰めていけばいいのだ。そうすれば思わぬところに「関連性」が見つかるかもしれない。そしてそういう時ほど楽しいものはない。

 

こうやって、文章を書くという行為、ブログを書くという行為も、当然、なんらかの「関連性」を求めているからである。

こうして最後まで読んでくださった、画面の前のあなたとも、ぼくは全く面識はないけれど、なんらかの「関連性」を持てたということだろう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。