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ハレバレとにっこり笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

「協調性」の意味を改めて考える。

考え方 岡本太郎

日本人は協調性を重要視すると考えられている。

 

しかし、その協調性とは、本当の意味での協調になっているといえるのだろうか。

 

協調と見せかけた、妥協、ファシズム、プロパガンダ、長いものには巻かれろ主義、という面もあるように思えてならない。

 

そして、

「協調性がない!」と叩く人は、単に自分たちの思い通りにならない人がいるのを認めたがらないだけで、協調性の本当の意味を考えているとも思えない。

 

「協調性がない」と叩かれる人は、「あれ、ちょっとおかしくね?」とイノセンスに、無垢に、純粋に違和感を抱く繊細な感性を持ち続ける人で、「こうしたほうがよくないか?」とより良い未来のための建設的な意見を提示することのできる、本当の意味での「協調性」のある人である場合が多いのではないか。

 

もちろん、なんの考えも持たずに、人の迷惑となるようなことしかしない奴は論外だ。

そういう人はたしかに協調性がないといっていいだろう。

なぜなら、そういう人は、相手のことが見えていないから。

それはただ単に無知であるということからきているのかもしれないし、他人の立場に立つ想像力の欠如によるものかもしれない。

そういう人は、人間関係の場数を踏むことで克服できると思われる。

 

一方で、

「協調しろよ!」と強制する、協調性に見せかけたファシズムに対して、毅然とした態度で拒否し、新たな価値を提唱する人は、本当の意味での「協調性」を持っている人であると思う。

 

そういう人は、表面上はたしかに「協調性がない」ように映るかもしれないが、もっと深いところで、全体のことを考えて、新たな価値を提唱する点で、協調性があるのだ。

 

 

「協調」という言葉を改めて辞書で引いてみてほしい。

 

性格・考え方などの異なった者同士が、互いにゆずりあって調和していこうとすること。

 

とある。

「互いにゆずりあって」という部分がクセモノで、ここを履き違えると、本当の意味での協調にはならない。

 

注目したいのは、前半の「性格・考え方などの異なった者同士が」という部分だ。

 

協調、協調性、というのは、そもそも「考え方が違う者同士」が存在することが前提なのだ。

 

それを履き違えている人は、「おれと同じ考えをしろ!」と強制すること、一方の価値観に自分を引っ込めて追従すること、それを「協調性」としてしまう。

 

それは単なるファシズムだ。言論統制だ。

面白くない。

 

本当の協調とは、大いに反発しあってこそ生まれるのだ。

自分を引っ込めて、「チクショウ、目をつぶって従うしかない」とくすぶり、表面上は同意することは全く協調的ではない。

 

本当の協調性が生まれた時、それは新たな価値観が提唱された、ということと同義であり、世界は少しだけ変化する。

 

「携帯に細かいボタンがうじゃうじゃしてんの気持ち悪くね?」と疑問をもってしまったスティーブジョブズしかり、

 

「「人類の進歩と調和」なんてテーマおかしくね?」と、縄文的な素っ頓狂なバケモノみたいな「太陽の塔」を立ててしまった岡本太郎しかり、

 

最近では、

「絵本は一人で書かなければいけないとか、芸人はひな壇に出なきゃいけないとか、そんな決まりがあるのっておかしくね?」と飛び出してしまっているキングコング西野亮廣さんなんかもそうだ。

 

彼らに共通していえるのは、相手、つまり「常識」、「一般的な意見」の立場の言い分も十分に受け止めた上で、そうした行為を行っていることだ。

 

一見、「協調性」とは対極にあるような行動も、本質的には「協調性」があるのだ。

 

 

彼らから学ぶことは多い。

 

「協調性がない」と悩む人こそ、実は協調性がある人である可能性もあるし、

世渡り上手で誰とでも「協調」できてしまう人は、逆に、まったく協調性のない人であるかもしれないのだ。

 

自分がどっちの意味で「協調性」を考えているのか、一度じっくり考えてみる必要がある。

 

そして、本当の意味での「協調性」を得たいと思うならば、

やっぱり、知識と思考と、信念とが必要になる。

つまり、勉強しなくてはならない。

 

それはどこかの授業にでれば教えてくれるといった類のものではなく、自分で掴み取っていくしかないのだ。

 

そういう意味での勉強を、これからもしていきたいと思う、春の夜でした。

 

 

ズバーーーッと書いてきてしまいました。

なんだ、この「意識高い系」の内容。

ウダウダ言ってないで、黙って実行しろよ、と思われるかもしれない。

ごもっとも。まことにその通り。

 

しかし、いつも書いているように、このブログは僕の思考、考えをまとめるため、というのが第一の目的であり、書くことで、再確認する作業をしているのです。

 

だったらチラシの裏にでも書けばいいじゃん、となるかもしれませんが、やはり、誰かの目に触れる、ということを意識して書くことで、自分にとってもわかりやすく、思考を整理する効果も高い、と思うのです。

 

だから、PV数がいくら低くても、あまり問題ではないのです。

それはこないだ書いたこの記事でも触れられているように、いつかどこかで誰かがみてくれるかもしれない、という期待があるだけで十分だからです。

 

kazfumi.hatenablog.com

 

とはいいつつ、やはり多くの方に読んでもらえるのは、やっぱり嬉しいもので、毎日「今日はどれぐらいの人が見てくださったんだろう?」とアクセス数を調べるのが日課になっています。 

 

おかげさまで、3ヶ月目にしてようやく合計PV数が1000を超えたところです。

まだまだですね。

がんばります。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。