ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

手段と目的を統一すること

お昼に、

kazfumi.hatenablog.com

 この記事を書いた。

 

書いた後で、

「あれ、でもこの手段と目的が一致している人もいるよなあ」と思い直した。

 

ので、1日に2連続でブログを書くという、初の試みをしてみる。

 

ミュージシャンを例に。

パッと思いつくのが、ミュージシャンだ。

彼らは、音楽を奏でることを仕事としているが、

同時にそれが彼らの「生きる」という目的と限りなく一致している。

音楽そのものが彼らの生き方を表現している。

(逆に、手段にすぎない音楽というのもこの世にはたくさんはびこっている)

 

ジャニス・ジョプリンという伝説的な女性シンガーがいる。

CMで流れてきそうな、いわゆる「綺麗な声」「聴きやすい声」ではない。

それにも関わらず、彼女の歌声は、彼女の生命がそのまま乗せられているかのような、不思議な魅力がある。

それはもう、彼女の「生きる」ということと「歌う」ということが限りなく近いところで一致していたからだろう。

 

また、先日『グレイトフル・デッドマーケティングを学ぶ』という本も読んだ。

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

 

 

アメリカのバンド、グレイトフル・デッドはヒッピー文化を語るときには欠かせないバンドだ。そのマーケティングは、今でこそ「フリーミアム」という名前が与えられているが、そんな名前がつけられるはるか前に、彼らはそれをやっていたのだ。

 

彼らは、マーケティングをあくまでも手段として捉えている。

本当の目的は、「気持ちいい体験を提供すること」だ。

彼らの音楽、ライブはその気持ち良さを追求している。

それはそのまま、彼らの生き方そのものとも言える。

その目的と、彼らの音楽が一致しているから、「フリーミアム」というマーケティングもうまくいった。

決してマーケティングが目的ではない。

 

グレイトフル・デッドにとって音楽とマーケティングは、明確に手段と目的を区別して考えられている。

しかし、「気持ちいい音楽体験を提供する」ということに関しては、彼らのライブそのものが、彼らの生き方に直結しており、手段と目的は統一されている。

 

ライスワークとライフワーク

これを最初に言った人はうまい言葉を思いついたなあと、いつも感心してしまう。

 

ライスワークとは、文字通り、「ライス」飯のための仕事。

つまり、あくまでも「手段」としてしか機能しない仕事のこと。

 

ライフワークとは、文字通り、「ライフ」生きるための仕事。

仕事が生きることそのものとして機能し、目的が一致している。

 

巨匠と呼ばれるような人たちは、生きることと仕事がそのまま一致している人のことだと思う。

ライフワークとして、仕事をしている。

 

もちろん、ライフワークだけでは食っていけなくて、ライスワークをするしかない状況というのもあるだろう。

もしくは、最初はライスワークのつもりで取り組んでいたら、いつのまにかライフワークに変わっているというのもありそうだ。

 

いずれにしろ、人が感動するような仕事というのは、作った人の人生の断片が感じられるような仕事なのだと思う。

それは紛れもなく、ライフワークといえる。

 

ライフワークとは、まさに手段と目的が統一されたもののことだろう。

それはつまり、

「これがなかったら、俺は生きている意味がない」

というようなもの。

 

どれだけしんどくて、もう二度とやりたくない、と思ったとしても、なぜか自然と惹きつけられ、ズタズタにされるまでやってしまうような。

それは単に「好きなことを仕事にしよう」とかそういう次元ではない。

使命感とも違う。

まさに運命的なものなのだろう。

 

最近、宮崎駿監督が長編アニメの製作に再び取り組んでいることが話題になった。

風立ちぬ』が完成した時に、あれだけ「もう長編はやらない」と宣言していたのにも関わらず、である。

おそらく、本当にもうやらないつもりでいたのだろう。

しかし、やりたくないと思っているのに、また手を出してしまっている。

もう、宮崎監督にとって、アニメ製作と生きることが切っても切り離せないものになっているということだ。(実際、引退宣言後も短編アニメは製作し続けていた。)

 

ゴッホも生涯まったくといっていいほど売れず、弟に仕送りしてもらってなんとか生きていたぐらいだったのにも関わらず、絵筆をはなすことはなかった。

彼も芸術と生きることがそのまま直結し、もはや切り離せないものとなっていたのだろう。

岡本太郎ゴッホについて書いた文章で、

「拳銃自殺を計ったあと、病院で過ごした数時間のあいだに、彼はようやく芸術を理解したのだろう。」

ということを書いていたが、おそらく事実だったと思う。

 

手段と目的の統一”体験”

思い返せば、そんな偉人レベルまでいかなくとも、誰でもこの手段と目的の統一体験はしたことがあるのではないか。

それは、「我も忘れて数時間も没頭しきっていた」というような時だ。

 

いわゆる「フロー体験」のことだ。

 

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

フロー体験入門―楽しみと創造の心理学

 

 

そうした体験をしているとき、人は生きることとそのとき取り組んでいることが統一していると考えられる。

手段と目的が統一している。

 

そういうとき、人は「自意識」「他人の目」「世間体」「見返り」「恥」などといったものから解放され、純粋に無条件に、無目的的に生きることができているのだと思う。

 

そうした体験が重なれば重なるほど、生きることはより豊かになるのではないか。

 

そして、偉人、巨匠と呼ばれるような人たちは、

この体験の持続時間が長かった人たち、という風に捉えることはできないか。

もしくは、一つ一つの体験はパッパと変わってゆくが、取り組んだ瞬間に没頭できるような性質を持ち合わせていた人。

すぐにフロー体験に入ることができる人。

 

究極は、「呼吸すること」ということだけで、フロー状態に行くことができることだろう。

そして、これはまさしく「禅」のことだ。

「マインドフルネス」とも呼ばれている。

 

 

死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝

 

 そして、一遍上人は、「念仏」と「踊り」によって、操作的にこの状態に人々をもっていくことができた人なのではないか。

 

そして、おそらく、フロー状態にいることを「極楽浄土」と表現したのではないか。

だから、「即身成仏」などという考え方も理解できる。

 

おわりに

ここまで書いてきて、また新しく考えが浮かんだ。

それは、手段と目的は本来統一されていたものであるということだ。

 

お昼に書いた記事で述べた、「手段が目的化」してしまうということは、つまりもともと統一されていた手段と目的が分離してしまうことだ。

手段だけ独立して目的化してしまい、本来の目的は忘れられてしまう。

 

お昼に書いた記事のタイトルは「手段と目的を区別すること」だったのだが、本質的には今回のタイトル「手段と目的を統一すること」になると思う。

だから、2回連続で別々の記事を書いたけれど、言っていることは本質的には全く同じことだったのだと、ここまできてようやく気づくことができた。

 

とりあえず腹が減った。

夕ご飯を「我を忘れるほど」に、集中して食べてやろうと思う。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。