ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

三日坊主の最後の一日

今日でこのブログも三日目。

俗に言う「三日坊主」の三日目。

今日を乗り切れるかどうかで、一気に評価が変わる。

やはり三日、ということが大事だ。四日坊主とか中途半端すぎる。二十日坊主とか、なんかネズミっぽいし、一月坊主はちょっとインパクトに欠ける。一年坊主はなんか生意気さを感じるし、三年坊主になりだしてくらいからようやく貫禄がではじめる。これだけ坊主坊主書いてると、「あれ、坊主ってこんな漢字だったっけ?」という感覚に陥る。(この現象のことはゲシュタルト崩壊と呼ぶらしい)

 

そんな話はどうでもよくて、三日坊主はとりあえず達成できた。

先に書いたように三日坊主以降は、三年坊主になるまで「〜坊主」は違和感を感じる。つまり三日坊主を達成したら、それ以降は三年経つまで、二十四日坊主とか百八十九日坊主とか、中途半端な坊主になってしまうのだ。四百七十日坊主とかくらいになったらちょっと中ボス感がでるが、それでも中ボスは中ボスだ。コロっと倒されるだろう。

 

そんな話はどうでもよくて、(二回目)とにかく三年坊主になるまでは修行を続けていかなくてはならない。その道は険しい。石の上にも三年座ったという坊主がいるらしいが、その実態はさだかではない。だいたい、物理的に3年間座り続けることは無理だろう。でもここでいいたいのは「石に座る」という超簡単な行為が、「三年」という言葉がつくだけで、「おお〜」という反応に変わるということだ。

 

それだけ、「継続させること」はインパクトがある。

 

じゃあ「息しつづけて三年」はどうなの?という小学生みたいな疑問が沸き起こる。しかしこの問題を考えることは意外と重要だ。

 

なぜ「息しつづけて三年」はインパクトがないのか。

それは「必然性」があるからだ。

必然性があることというのは、個人の意思を超えてしまう。「やろう」とすら思わないでやっている。頭を使わないで無意識に続けている。しかし「石の上にも三年」の場合、そこに「必然性」はない。石の上に座り続けなかったからといって別に問題はない。それでも続けようとなったら強烈な「意志」が必要になる。寒いダジャレ言ってんな〜と思った人は、いいところをついている。多分「石の上にも三年」という言葉を考えた人は、この「意志の上にも三年」ということを念頭に置いていたはずだ。「岩の上にも三年」にならなかったのには何か意味がある。

 

「必然性」が伴わない行動を継続するためには「意志」が必要になる。

「石の上にも三年」にインパクトがあって「息しつづけて三年」にないのは、「意志」があるかないかの違いだ。

 

じゃあ意志しないのは悪いことなのか、というとそうでもない。

例えばプロピアニストとかは「練習しなきゃ!」とかいちいち意志しなくても毎日、それこそ三年どころの騒ぎじゃなくて続けているだろう。

それはやはり練習することに「必然性」をその人が見出しているからだ。やらなかったらプロとしての生き方が終わってしまう。やるやらない以前に、もうあたりまえのようにやる。呼吸するみたいに。

 

その一方で「ダラダラと三年も続けちゃった」という「惰性」の場合はどうだろう。

「惰性」の場合にも「意志」が存在しない。でも「必然性」がありそうには思えない。

本当にそうなのだろうか?おそらく「惰性」で続けてしまったのは、「本当にやりたいことはなんなのか?」という事を考えることから逃げるという「必然性」のもとに生じる現象なのではないか?「惰性」でやっていることそれ自体には「必然性」はないだろう。だが「本当に必要なこと」から目を背けるという行為の方に「必然性」が生じている。「本当に必要なこと」を直視しようと思ったらそれなりに「意志」が必要だ。

 

あまり書きたいことがまとまっていないが、無理やりにまとめると、

 

・継続するためには「意志」が必要。

・もし継続しているのに「意志」していないことがあったとしたら、その行為の何に「必然性」を見出しているのか、を考えることが必要。

・それが「惰性」であったなら、「本当に必要なことはなんなのか?」を考える時間をとった方がいいんじゃないか、ということ。

 

三日坊主の最後の一日は、ちょっと真面目な内容になった。

 

今日はここまで。