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はればれとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

「コンビニ人間」にも「ありがとう」と言える人でありたい。

村田沙耶香さんの『コンビニ人間』の芥川賞受賞、大ヒットはまだ記憶に新しい。

コンビニ人間

コンビニ人間

この作品が話題になったのは、「コンビニ人間」というタイトルによるところも大きいのではないだろうか。

「コンビニ」と「人間」の組み合わせの斬新さ。

斬新に感じるということは、

「コンビニ」と「人間」は普通は相容れないもの、という認識があるということだ。

 

「コンビニ」に対する一般的イメージは、「手軽さ」ではないか。

いつでも、どこでも、似たような商品が並び、購入できる。

 

細かな配置は異なるが、だいたい、入り口付近に雑誌コーナー、ATM、コピー機があり、文房具、化粧品、小物家電はその付近、その裏の棚にスナック菓子類、カップラーメン、飴やガム、そして入り口から一番遠いところに冷蔵機器が置かれ、ペットボトルや惣菜、おにぎりサンドイッチが置かれている。そしてレジには揚げ物や肉まん、おでんなどのファストフード類、タバコが並ぶ。

 

空間構成まで全国共通で、ここまで現代社会に浸透した施設もないだろう。

圧倒的な供給量を誇り、そこに行けば、上記のような空間がいつでもあるという一般認識を形成し、その結果「手軽さ」というイメージが生まれた。

 

いつでも、どこにでもある、なんでもない日常的風景。

『コンビニ人間』はその日常的風景に溶け込むことで初めて社会に適応できたと感じる主人公の物語だ。

 

個性などは要求されず、むしろ、全国共通の機械的な立ち居振る舞いをすることを要求される。「コンビニ」という機械の部品のように。

 

そして、我々利用者側も、べつにコンビニ店員の個性などは要求しない。

機械的に「いらっしゃいませ→◯◯円になります→××円お預かりします→△△円のお返しです→ありがとうございました」という一連の流れさえやってもらえればそれで十分だと思っている。

 

しかし、である。

やはり相手は人間なのだ。

今後の人生に全く関わりのない人間かもしれない。

全国どこにでもいる、誰でもいい、正直どうでもいい人間かもしれない。

それでも、なんらかの縁があって、70億人中の1人として、その人とあったのだ。

 

別に、無表情でブスッとしてても、文句も言わずにコンビニではちゃんと対応してくれるだろう。

むしろ、店員にたいして世間話とかを始める客はコンビニ側からすれば迷惑ですらあるかもしれない。無表情で、ブスっとしてる無愛想な客のほうが好ましいものなのかもしれない。

いちいち、コンビニにまで「人間的感情」を持ち込むのは迷惑なのかもしれない。

 

それでも、やはり、相手は人間なのだ。

 目をみて「ありがとう」と言うぐらい、してもいいじゃないか。

 

でも、なぜ、ほとんどの人はそれすらしないんだろう。できないんだろう。

やはり、コンビニに「人間的感情」を求めていないからだろうか。

機械同然に思っているからだろうか。

「機械」にたいしてわざわざ「ありがとう」というのは馬鹿げている、と思うからだろうか。

 

しかし、コンビニ店員にはブスっとして無表情で偉そうですらあるのに、取引先のお偉いさんに対してはいつもヘーコラしてるおっさんとか、非常にカッコ悪いと思うのは僕だけだろうか。

 

どうでもいいような人間に対してこそ、その人の本性が現れる。

本当にカッコいい人は、コンビニ店員にもちゃんと「ありがとう」と言っているはずだ。

(こんな事は全国の「校長先生のお話」の中で「コンビニ人間」が「トイレそうじのおばちゃん」などに変化して何千回も繰り返されているだろうけれど。) 

 

コンビニのように、人間的感情を特に求められていない環境で、

それでも自発的にそうした人間的感情をもって接することができる人は、

普段の人間関係においてもそうしたことを意識するだろう。

 

しかし、コンビニで「ありがとう」と言うのは

普段の人間関係において「ありがとう」と言うよりはるかに難しい。

 

友達に何かしてもらって「ありがとう」と言わなければ、嫌な奴認定をされてしまうし、別に抵抗感なくサラッと言えるだろう。

しかし、コンビニでは別に「ありがとう」と言わなくても嫌な顔されないし、むしろ言わないことが普通みたいな感じになっている。

わざわざ、「ありがとう」と言おう!と意識しなければならない。

 

ここで、一つの疑問が起こる。

ありがたいと思ってもいないのに口だけ「ありがとう」と言うことこそ、カッコ悪いことじゃないのか?と。偽善じゃないか、と。

 

確かに、思ってもいないことを上辺だけ、形式的に言うことはカッコ悪いし、なんか嫌な感じだ。

 

しかし、さらに疑問が起こる。

コンビニ店員の行動に「ありがたさ」を感じない我々の感性に問題はないのか?と。

 

確かにほとんど機械的な動き、対応をされて、別にありがたさを感じる面はあまりない。

こっちはお金を払っているのだし、それでいいじゃないか、と。

 

ごもっともだ。

しかし、それでもコンビニ店員にたいして人間的感情を持てる人は、やっぱり魅力的じゃないだろうか。

それは意識してやることではないかもしれない。

自然にできるからこそ、かっこいいのであって、意識してやったら、ちょっと作為を感じてしまうかもしれない。

 

でも最初は、意識して、あえて「ありがとう」と言うぐらいでもいいんじゃないか。

最初は上辺だけでも、いいんじゃないか。

普段から「ありがとう」と言い続けていれば、順番的には逆になるが、人間的感情も芽生えてくるかもしれない。

作為っぽくても、別に「ありがとう」と言うぐらいは、大げさでもなんでもないし、

それぐらいサラッと言えたほうがカッコいい。

別に心から「ありがたい」と思わなくても、サラッとでも、いいんじゃないか。

「ありがとう」と言われて「は?なに心にもないこと言ってんだよ、クソダセー」とか思う人は、そっちのほうがクソダセー。リップサービスでもとりあえず「ありがとう」と言っておくことは悪いことではない。

 

普段から、こんなことばっかり思っているから、

いざコンビニでありがとうと言おうとすると

「あれ、おれ今心にもない「ありがとう」を言おうとしてるぞ、いいのか?」

とか思っちゃったりする。

 

あんまし難しく考えず、サラッと「ありがとう」と言える人でありたい。