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はればれとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

誕生日はそんなにおめでたいものなのか?

facebookで普段そこまで親しくない人の「誕生日のお知らせ」が来ると、

果たして「おめでとう」と送ってもいいのか考えてしまう。

そこまで仲良くないのに「おめでとう」というのはなんか違くないか?と。

そんな奴から「おめでとう」と届いたところで、相手は対して嬉しくないだろうし、

「ありがとう」と一応返事をしなければならない義務感も生んでしまうのではないか?

だったら、はじめっから、何も送らないほうがいいんじゃないか?と。

 

理想は誰に対しても公平に心から「おめでとう!」と言えることだろう。

しかし、そもそも、誕生日ってそんなに「おめでたい」ものなんだろうか?

なんで、素直に「おめでとう」と送ることができないんだろうか?

今回はこの点について考察していきたい。

 

昔の日本人は、新年になると一斉に一つ歳を取るというシステムだったらしい。

だから、誰々が何月何日に生まれたか、ということは現代ほど重視されていなかったのだろう。

個人個人の誕生日よりも、一年間、という期間が重視されていたわけだ。

最近、そのシステムもいいなあ、と思う。

 

現代では、個人の誕生日を祝うということは、常識化されている。

自分の誕生日に特別な意味、感情を持つ人がほとんどだろう。

自分の誕生日を覚えていない人はよほどの事情がない限り、いないだろう。

そんな日を、誰かにお祝いしてもらう、というのは確かに賑やかでうれしいものだ。逆に誰からも祝ってもらえなかったら落ち込むのもわかる。

 

しかし、そういったことはひとまず置いておいて、

そもそも、誕生日自体がそんなに意味のあることなのだろうか?

ということを考えてみたい。

 

冷静に考えれば、誕生日など、1年のうちの1日にすぎない。

365日周期で自動的に周ってくる日だ。

部屋でグータラ寝てたって、犯罪者にだって、生きてさえいれば誰にでも訪れる。

そこに個人の意思などほとんど存在しない。

 

「誕生日は祝うものだ」という固定観念を全て捨て去って、もう一度冷静に考え直せば、他の1日となんにも変わらない、1日だ。

誕生日になったからといって、いきなり何かが変わるわけじゃない。

自分の生まれた日から365日毎に定期的に訪れる1日、という意味しかない。

 

そんな日の、一体何がめでたいというのだろうか?

 

「だって、誕生日なんだからおめでたいに決まってんじゃん」

 

というのは、思考停止に陥っているとは言えないだろうか。

 

本当の意味での誕生日は、人生でたった1日しかないはずだ。

何年何月何日、という固定された1日であって、

それ以降は、全ての日、もっと言えば瞬間全て、が同じだけの価値を持つはずだ。

 

誕生日は1年が周ってきた証の日として、「ああ、これで1周したんだ」と確認するのには役に立つが、

はたして、それ以上の意味はあるのだろうか?

誕生日の次の日はまた「どうでもいい1日」に戻ってしまうというのだろうか。

 

毎日毎日、世界のどこかで誰かの誕生日が訪れている。

しかし、自分にとっては、なんでもない1日だ。

例えば、今日は1月28日。この日付に対して僕はなんの感情も持たないが、

世界のどこかでは、重要な日として「設定」され、盛大なパーティーが開かれているのを想像すると少し不思議だ。

 

それに、誕生日にだけ

「おめでとう!」というメッセージを送り、

その他の364日はほとんど関わりがない、というのもなんかおかしくないだろうか。

 

誕生日だから、「おめでとう!」というメッセージを送るのは不自然ではないし、それを利用して、つながりを保っておこう、みたいな図式になっている。

 

しかし、そこまでして保つ関係は、ホンモノなのだろうか?

 

誕生日だから、お祝いしよう」というのは噓っぽくないだろうか。

 

誕生日なんか知らなくても、自分にとって大切な人というのもいるはずだ。

「誕生日は重要なもの」という固定観念以外に、誰かの誕生日を覚えておくメリットは何もないはずだ。

 

「誕生日だから、お祝いしよう」

という、なんか「条件付きのお祝い」感は、すごく違和感を感じる。

誕生日だから、なんなの?

「誕生日だから」という理由しかないお祝いなど、全く嬉しくないのでは?

 

誕生日は、自分1人だけ、コッソリ覚えておいて、本当に1周年の確認の日付としてしか機能しなくて、

新年に皆でお祝いする、という方が、より誕生日のありがたさも高まりそう。

 

 

こんなことを書いておいて、

いざ自分の誕生日になって、誰からもお祝いされなかったら、やっぱり寂しいだろうし、普段親しいか親しくないかは別にして「おめでとう」と言ってもらうのは素直にうれしいだろう。

結局、利己的な考え、

つまり誕生日をお祝いするめんどくささを感じるくせに、自分の誕生日は祝ってもらいたい、という側面が見えて来る。

誰でもがそうした利己的な側面を持っている。それを分かっているからとりあえず「誕生日おめでとう」と言っとけば喜んでもらえる、という便利な制度ができたのだ。

 

いま「誕生日をお祝いするめんどくささ」と無意識に書いたが、

一瞬でもめんどくさいな、と思うということは、本心ではおめでたいと思っていない証拠なわけだ。

そんな人に「おめでとう」というのはやっぱり違う気もする。

誕生日という便利な日を利用し、「おめでとう」ということで自分を売り込むみたいな嘘臭さを感じるのだ。

 

本当に大切な人であれば、めんどくささなど微塵も感じないはずだし、心から「おめでとう」と言えるだろう。

 

もしくは、本当に大切な人であれば、逆に誕生日なんか意識しなくても365日毎日、感謝の念を抱いていて、誕生日とそれ以外の日の区別をつける意味もなくなるだろう。

誕生日にならなければその人のことを思い出さない、という方が、寂しくないだろうか?

ふとした時に思い出す人、誕生日とか全く関係ない日に突然思い出す人、という方が大切な感じがしないだろうか?

 

誰彼構わず、とりあえず「誕生日おめでとう!」というのはすごく安っぽい気がする。

 

そんな嘘くさい「おめでとう」なんかより、

ある日ふと思い出して、アイツと話したいなーと思って

「今日呑みにいかね?」

というお誘いの方が嬉しいんじゃないだろうか。

 

同じことが、

敬老感謝の日、父の日、母の日、こどもの日、◯◯の日

とかにも言えそう。

 

1年365日毎日お祝い、感謝するべきではあるけれど、

それでも1年を代表して、「あえて」設定した、

というのがそうした記念日の本質であるはずだ。

 

それを無視して、本当にその日1日だけしか注目しない、というのは

やっぱりなにか嘘臭さを感じてしまうのだ。

 

つまり、「誕生日おめでとう!」と素直に言える人というのは、

普段から親しい人に限定されるし、

そうじゃない人には無理やり送ったところで意味がないんじゃないか、という話。

 

でもそうやって人間関係に序列をつける感じも、また違和感があるし、

難しいな・・・。

 

うまくまとまらないけど、今回はここまで。