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はればれとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

言葉にできた時、神秘性が消える。

 なにかの性質について、「これこれこういう性質だ」と言葉にできた時、

そのモノの神秘性は失われてしまう。

 

たとえば鮮やかな手品を見たとき、不思議な現象が起こったように見える。

しかし必ず言語化できる「タネ」が仕組まれているのを私たちは知っている。

そのタネを知った瞬間、「ああ〜なるほど!」とスッキリはできるが、それ以降その手品に対する神秘性というのは失われてしまうだろう。

 

以下、同様に、思いつくまま具体例を述べていこう。

 

人間がモノを書くことによって思考を整理できるのも、

「ゴチャゴチャしているカオス的な思考世界」の神秘性を

言葉にすることで失うこと、とみることもできる。

 

音楽は、言葉にできない部分を、メロディー、リズム、などの言語に頼らないもので表現できるため、神秘性は保たれる。

だから、美しい音楽を聴いた時、直接的な感動を味わい、涙を流すことができる。

歌詞のある曲であっても、歌詞そのものの内容、言語で表現しているものの裏側にある、言語にならない部分というのが伝わる場合、神秘は残されている。全く理解できない外国語の音楽でも感動する、というのはこのためだ。

 

そして、絵画、写真、映画、彫刻・・・全ての芸術作品は、言語を使わずにそのモノの神秘性を表現するところに芸術性がある。

現代アートは一見するとゴミみたいなものも作品となることがあるが、それは言語にならない部分で勝負しているからだ。

 

文学作品はどうか。

言語化された内容そのもの、ではなく、そこから引き出される、ある種の神秘性にアクセスできた時、人は感動する。

俳句や詩などは、文字で表されたものそのものに価値があるのではなく、そこから言語にできない神秘性にアクセスできた時に深いものとなる。

 

ある人がカッコいいと感じたとしよう。

「なぜ、カッコいいのか?」という問いには様々な答えができるだろう。

容姿が整っている・髪型や服装がおしゃれ・性格がいい・・・などなど。もっと細かくいうこともできるだろう。

しかし、いくらそうやって「カッコよさ」の具体例を並べ、もうこれ以上出ないというところまで言語化できたとしても、「具体例の総和=その人のカッコよさ」とはならないはずである。何かが足りない。それが、言語化できない部分なのだ。

 

もしこの言語化できない部分すらも、言葉にできてしまったとき、人の魅力というのは失われてしまうだろう。

それは不可能なことか?

実は全て言語化できる場合がある。

それは「カッコつけ」ている場合だ。

「カッコつけ」とは、本人が言語化できることだけをとりあえず踏襲し、「カッコよさ」の一番重要な要素である、言語化できない部分は持たない状態のことだ。

「化けの皮がはがされる」とは、言語化できることしか持っていなかったことを暴かれたことを意味する。

太宰治の『人間失格』の「ワザ、ワザ」の場面はこれをリアルに表現している。

「カッコつけ」から「カッコいい」に変わる場合というのは、

言語化できる所だけしか身につけていなかったはずが、知らない間に言語化できない部分ができた時のことをいう。

「最初は形から入る」というのは、コレを目指す行為である。

 

昔の職人の世界では「目で見て盗め」という表現をしていた。

これは、言語化できることは大したモノではない、ということを示唆している言葉なのではないだろうか。言語化できることというのは、マニュアル化ができるということで、その本質は誰でもその通りにできる、ということだ。

誰でも同じようにできること、つまり工業製品と、職人の伝統技術の違いはここにある。

逆にいえば、職人の技術が全て余すところなく言語化できるとき、それは工業化したほうがいいということだ。

神秘性を失った技術は工業化される。

これだけ技術が発展しているのに、未だに伝統の技でしか再現できない分野、というのはこの神秘性が保たれているからだといえる。

しかし工業製品にも「黄金比」や「白銀比」など、言語化できないが、人間が美しいと感じる比率、という神秘性を取り入れているモノは美しい場合が多い。

Apple社の製品は代表的だ。

工業デザインとは、モノに神秘性を与える行為とみなすこともできるのかもしれない。

 

吉川英治の『宮本武蔵』には、ある人物が花の枝を切って、一輪挿しとして武蔵に渡した時、武蔵がその切り口をみて相手の剣の実力を知る、という場面がある。

その時武蔵は「言葉にはできない」が、明らかになにかがある、と感じていた。

それこそ、言語化できない神秘的なモノだ。

 

たとえば誰かを好きになったとしよう。

なんで好きなの?と聞かれて、「これこれこうだから」と答えられるのなら、なにか嘘くさく、「なんかわからないけど、とにかく好き」というのは真実味がある。

これも、言語化できてしまっている時点で、相手の神秘性を知らない、つまり本当には好きではない、ということがわかるからだ。言語化できる部分だけしか好きではないのであれば、その特徴を有する者であれば誰とでも交換できるということだからだ。

つまり、言葉にはできないけど、なんかあの人良いんだよなー、と思ったとき、それは本当に好きだということになる。言語化しようとしてもできない部分。

「雰囲気」「空気感」というのはそれをあえて言語化したものである。

「あの人の雰囲気が好きなんだよ」と一応言語化できても、じゃあその雰囲気の正体は?と聞かれれば、言語化はできない。

 

「一目惚れ」とは、いきなり会った瞬間に「言語化できない」部分が現れてきたことをさす。

「外見が好み」だけではない、なにかを感じた時の現象である。

ある統計によると、お互いが一目惚れ同士で付き合い、結婚したカップルは別れにくいという結果がでたらしい。

それはやはり「言語化できない」部分でお互いに魅力を感じあっているからであり、どれだけ長く一緒にいようが、その「言語化できない」部分が存続し続けるからではないか。

 

言語化できない部分に神秘が宿る。

では、言語化することの意義とは?

逆説的に、言語化できない部分を突き止めるため、となるのではないだろうか?

「なにかがわからない」ということを「わかる」だけでも立派な業績となりうるのである。

 

スケジュール管理、ビジネス的な思考、実利・・・

それらは、いかにうまく言語化して、神秘性を排除できるか、という試みだ。

「なにがなんだかワケがわからない」という状態は神秘性が宿っている状態、とみなすことができる。言語化することで、それを暴いてゆくのである。

コンサルタントはそれを仕事にしているといえる。

 

また、優れた研究者というのは、一見複雑でも「これは全て言語化できることだな」と判断できた場合にだけ研究を始める。「言語化できないモノが含まれるな」と感じた時は、いかに魅力的でも研究しようとはしない。それは人間一人が解決できるモノではない、とわかるからだ。これは確かファインマンの言葉であったと思う。

 

こうしてブログを書くというのも、自分の頭の中の「言語化できる部分」と「言語化できない部分」を明確にする行為だといえる。

ブログに書いていることというのは全て言語化できることだ。

書いて書いて、それでも自分の頭の中に残るモノ。言語化できないモノ。それを見極めるために、書くのだと思う。