読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

はればれとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

『えんとつ町のプペル』はきれいだが、美しくはない。

「きれい」だが「美しく」はない。

どういうことだろうか。

 

はじめに断っておくが、僕は西野亮廣さんがめちゃくちゃ好きだし、ディスる意味でこれを書いているわけではない。

 

kazfumi.hatenablog.com

 (この記事を書いたあとで、この記事も書きました。よかったらぜひ。)

 

「きれい」と「美しい」の違い。

この問題を理解するためには、

岡本太郎の『今日の芸術』を読むことが前提となる。

 

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

 

 

綺麗と美しいの違いについて、『今日の芸術』から抜粋する。

 

「きれいさ」と「美しさ」とは本質的にちがったもので、ばあいによっては、あきらかに反対に意味づけられることさえあるからです。-p111

 

「美しさ」は、たとえば気持のよくない、きたないものにでも使える言葉です。みにくいものの美しさというものがある。グロテスクなもの、恐ろしいもの、不快なもの、いやったらしいものに、ぞっとする美しさというものがあります。美しいということは、厳密に言って、きれい、きたないという分類にはいらない、もっと深い意味をふくんでいるわけです。 -同

 

ゴッホは美しい。しかし、きれいではありません。ピカソは美しい。しかし、けっしてきれいではないのです。 -p112

 

まとめると、

  • 「きれい」 =形式美的・整っている・洗練・完成度が高い・心地よい…
  • 「美しい」=魔術的に魅きつけられる・強烈・ザワつく・「怖いもの見たさ」・歓喜

ということになるだろう。

もっと専門的な用語を使えば、

「きれい」=アポロン

であり、

「美しい」=ディオニュソス

だということだ。

岡本太郎ニーチェから多大な影響を受けている。)

 

西野亮廣氏の『えんとつ町のプペル』はたしかに圧倒的な完成度を誇り、絵本としては異例の大ヒット、色彩も構図も徹底的なまでに洗練され、ストーリーも良い、と大評判を呼んでいる。

 

しかし、上の定義でいうような「美しさ」はないのではないか。

 

「いやいや、表紙をみて、思わず手に取ってみたくなるのだから、「見るものを魅きつける」という「美しい」の定義にあてはまるんじゃないの?」

と反論があるかもしれない。

f:id:kazfumi:20170218011640j:plain

(『えんとつ町のプペル』の表紙)

 

たしかに、この表紙をみたら、誰でも手に取ってみたくなる。

そして、中身ももちろん、圧倒的な完成度を誇っている。

全ページが圧倒的な熱量のもと、作られている。

次々とページが進んでしまう。

子どもも大人も、夢中になって読んでしまう。

 

しかし、そこには「うわ〜キレイ!スゴイ!」という感動はあるかもしれないが、

心を引っ掻き回されるような、見る前と見たあとで全く世界が変わってしまうような、そうした「美しさ」のもつ感動はない。

たしかに、感動はする。

でも、すんなりと受け止めてしまうような感動だ。

少なくとも僕の場合は。

僕の鑑賞能力が低いだけかもしれないが。

 

ここにはこの絵本を芸術とみなすか、製品とみなすか、の問題がある。

 

完成度でいえば、間違いなく、芸術品に近い。

それは大ヒットと各地の展覧会の盛況ぶりからも明らかだ。

西野氏をはじめ、関わったスタッフたちの熱量もものすごかったと思う。

そこらへんの自称アーティストなんかの作品よりも圧倒的な完成度と熱量だと思う。

 

しかし、『えんとつ町のプペル』は「芸術」ではなく、あくまで「絵本」という「製品」なのだ。

だから、「綺麗」だが「美しく」はない。

 

西野氏も、「100万部を売る」「”おみやげ”としての絵本」といった発言をしていることから、「製品」として捉えていることがわかる。

ワケのわからない「芸術作品」としてではなく、

大ヒットを記録するような、「エンターテイメント作品」としての製品である。

 

だが、西野氏およびその作品に全く芸術家的要素がないかといえば、そうではない。

彼の書いたビジネス書、『魔法のコンパス』を読んでもわかるが、西野氏はその生き方、考え方がニーチェのいう「超人」思想、岡本太郎の「爆発」的なものに通ずるものを持っているのである。

「過去はつくりかえられる」とか、「批判を利用する」とか「ヨット理論」とか、まさにそうだ。

そして、『えんとつ町のプペル』においても、その製作手法や、販売戦略、メディア活用などで、つぎつぎと、既存の価値観を覆すような行動を取っている。

つまり、芸術家的な部分も持ち合わせている。

 

もしかしたら、西野氏は「100万部売る」という行為自体を「芸術作品」として捉えているのかもしれない。それは実際に芸術的だ。

えんとつ町のプペル』はその芸術作品の一部、と捉えられるのかもしれない。

絵本業界の常識を覆し、それまでの価値基準に「否」をとなえるわけだから。

こういう意味で、西野亮廣は芸術家的である。

 

 

また、彼の最初の絵本、『Dr.インクの星空キネマ』からは、上の「美しさ」の定義に通ずるものが感じられる。純粋に綺麗なだけではなく、「美しさ」が。

それが、『えんとつ町のプペル』になると、一気に洗練され完成度はあがっているが、生々しさというか、芸術的な要素が薄くなり、「エンターテイメント的」作品になっている。

エグみ、のようなものがなくなっている気がする。

これが一概に悪いことだとは言わない。

なぜなら、売るためには、そうした過程が必要となるからだ。

「芸術」はその本性として、万人受けは狙えないのだ。

 

西野氏は、そのことについてもおそらく自覚的だったのではないか。

つまり、アクの強いものでは皆に読んでもらえない、と。 

だから、分業制という方法を選び、あえてアクを薄めたのではないか。

 

西野氏はこうしたことに対して、「作家性がなくなると批判されたけれど、分業制によって、自分の頭の中のイメージにより近いものが生み出せるようになったから、逆に作家性があがるのだ」という意味の発言をしていた。

たしかに、そういう意味での「作家性」はむしろ高まったと言えるかもしれない。

しかし、芸術的な意味での「作家性」はあきらかに弱まってしまっているのではないか。

アクのような部分。

頭の中のイメージとは違うかもしれないが、その結果滲み出てくるモノ。

 

少し前、西野氏が「お金の奴隷解放宣言」というブログを書いて話題になっていた。

多く届けるためには、お金という関門をとっぱらってしまう必要がある、パブリックなものにしてしまう。それでも欲しい人が絵本という物質を買い、それは収益になる、という内容だった。そして実際にそれを実行してしまった。

 

実は、岡本太郎も絵は売らないという主義を貫いていた。

一種の「お金の奴隷解放宣言」をしていたわけだ。

なぜなら、売れることを意識してしまえば、「美しさ」が消えることを知っていたから。

そのかわり、公共の場で彫刻作品や陶板壁画を製作したりした。「太陽の塔」はその代表的な例。

多くの人は通り過ぎるだけかもしれないが、無言に、無意識的に、メッセージを発するように。

 

エンターテイナーとしての西野亮廣が、芸術家としての西野亮廣になる日も、もしかしたら来るかもしれない。その時こそ、ウォルト・ディズニーを超えた、といえるのかもしれない。

もしかしたら、もうすでに超えているのかもしれない。

 

(2/18追記しました。)