ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

『えんとつ町のプペル』について僕は大変な思い違いをしていた。

先日、「『えんとつ町のプペル』はきれいだが、美しくはない。」という挑発的な記事を書いたあと、ツイッターにてえんとつ町のプペル公式アカウントにリツイートしていただいた。

 

kazfumi.hatenablog.com

 

一日平均 5PVくらいの超無名ブログが、それだけで急に80PVぐらいになった。

そして、必死に自分の書いたものを読み返し、

ヤバイことをしてしまっていたことに気づいたのだ。

 

なぜなら、えんとつ町のプペル』は絵本だけではまだ未完成だということを考慮に入れていなかったことに気づいたからだ。

 

同じ日、西野さんは公式ブログに「長い長い物語」という記事をあげていた。

lineblog.me

 

この中で、「『えんとつ町のプペル』の絵本はあくまでも「おみやげ」としての機能しか果たしていない」ということ、「二の矢、三の矢も用意している」ということを述べている。

 

僕の勘違いは、『えんとつ町のプペル』を絵本だけで完結しているものと、思ってしまっていたことにある。

絵本が「主役」で展覧会などはその「オマケ」、あくまでも絵本を売るための戦略、ぐらいに思っていたが、

 

全くの逆だったのだ。

 

そうではない。

絵本そのもの自体は「おみやげ」。

つまり、『えんとつ町のプペル』という世界、体験の、パンフレット的役割しか果たしていないということだ。

 

僕は、まだ『えんとつ町のプペル』の原画展に行っていない。

それが最大の誤算だった。

展覧会場に行っていたら、

えんとつ町のプペルはきれいではなく美しい』という記事を書いていたかもしれない。

光る原画は、たぶん写真だけでは伝わらない美しさを持っているのだろう。

しかも「夜の鳥取砂丘やモンゴルの大草原」でもできるのであって、周りの環境と相互作用する可能性も秘めている。

それはもう、現代アート的に体験するしかないのだ。 

 

西野さんはもはや、「絵本」を超えようとしているのではないか。

「絵本作家」という肩書きももう古いものになりつつあるのだと思う。

やはり芸術家になりつつあるのではないか。

それはつまり、「体験」を創る人としてだ。

「絵」という平面的制約を飛び出してしまうつもりなのだ。

 

おもえば、

ウォルト・ディズニーも、アニメから飛び出して「ディズニーランド」という体験を創り出してしまったし、

岡本太郎も画家という枠から飛び出して、「芸術家」となり、「太陽の塔」など公共の場に作品を創ることで、一種の体験を創り出した。

西野さんはもともと「お笑い」という体験を作り出す人ではあったが、絵で完結する絵本作家としてスタートし、今度はその絵本という制約をも飛び出そうとしている。光る原画展など。

「お笑い」という体験を作り出す人と絵本を作り上げる人を掛け合わせて、

作品世界という体験を作り出す人になろうとしているということだ。

 

実際、おとぎ町という町を作っているし、全国あちこちでトークショーをして、「体験」をすでに作り出している。

ぼくも一度西野さんのトークショーを生で聴かせてもらったことがあるが、あれはやはり強烈な「体験」だった。

 

展覧会の「光る絵」でさえも、たぶんまだまだ序の口のはず

それをまだ見てもいないのに、紙の絵本だけをみて、

つまり本番を見ずにパンフレットだけを見て「美しくない」とは、

勘違いもはなはだしかったな、とその日のブログを読ませていただいて気づいたのだ。

それに、西野さんはあくまでも「おみやげ」と表現して、絵本自体では全てを表現しきれていない、とおっしゃっているが、読み取り方次第で、やはり絵本単体であってもやはり「美しい」ものであったと思うのだ。それを「美しくはない」などとエラそうに書いたぼくは、まんまと「私の鑑賞能力は低いです」と表明していただけだったのだ。 「信じぬくんだ」というメッセージ性を本当の意味で受け取ることのできる人が「美しい」と感じ、泣くほど感動してしまうことができる。ぼくには「信じぬくんだ」というメッセージを本当の意味で受け取るための本気の体験が乏しいために響いてこなかっただけの話で、今後そういう「信じぬくんだ」という体験を「思い知らされた」ときに、初めて『えんとつ町のプペル』の美しさが分かるようになるのだろうと思う。 だから、今後再び『えんとつ町のプペル』を読み返したときに、今度は素直に「美しい!」と思えるようになっているかもしれない。それはぼく自身の行動次第なのだ。 ぼくが何度も言及している岡本太郎も、「芸術とは、それ単体では完成でなく、見るものが感動してこそ芸術になる」ということを言っている。『えんとつ町のプペル』を芸術と捉えるのか、たんなる絵本という製品として捉えるのか、の違いは、作品の方にあるのではなく、受け取る側の人生経験が左右するのだと思う。ぼくも「信じぬくんだ」というメッセージが響いてくるような、そんな体験を重ねて、改めて「『えんとつ町のプペル』はきれいでなく、美しい」という記事が書けるようになるまで、日々生きていかなければならないと思う。 そして最後に。 前回の「えんとつ町のプペルはきれいだが美しくはない」という挑発的なブログ記事を書いたのには、「毎日毎日5pvしかないし、メッセージ性の強く人目を惹くものにして、あわよくば、西野さんに見つけてもらって拡散してもらえばもっと読んでもらえるようになるかも」というスケベ心があったのをここに告白しようと思う。 しかし、「pv数を増やそう」という安易な考えのもと、取り返しのつかない内容の記事が多くの人に読まれてしまうことになった。間違いなく西野さんには「なんだコイツ」と思われてしまっただろうし、ファンの方からも同じくそう思われてしまっただろう。ぼくはこのブログでは実名も顔も明かしていないので、そもそも信頼関係などというものがあるはずもないのだが、もう、それだけで数えきれない人の信頼を失ったことになる。 自分の受け取り方の未熟さ、それは普段のぼくの生活、人生で、本当の意味で自分自身で決断し、行動し、思い知らされるようなことをしてこなかった、つまり人生から逃げ続けていたことから引き起こされた「美しくはない」などという誤った判断。そしてそれをエラそうに、ブログに堂々と書いてしまったぼくのバカさ加減。 ある意味で、今回のことは本当に「思い知らされる」経験となった。 いつになるかわからないが、 「えんとつ町のプペルはきれいでなく、美しい」という記事が堂々と書けるようになるまで、日々、生きて行こうと思います。