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ハレバレとにっこり笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

インカメを誤作動して死にたくなった人へ。それはあなたの普段の表情だ。

生き方 考え方

ぼくもときどき、やる。

普通に写真を撮ろうとしたのに、なぜかインカメが誤作動して、自分の顔が映し出される。

絶望する。

「なんだ、このブサイクな顔は!!!!」

と。

 

 

しかし、冷静に考えなければならない。

それが、普段の自分の表情なのだと。

認めなければならない。

そのブサイクな表情で、普段人様に接していることを。

 

この現実を認めたくないがために、人は、

「写真写り悪いのよねーアタシ。」

みたいに、写真の自分は普段の私じゃない、と思い込もうとする。

 

逆だ。

 

そのブサイクな写真の人物がお前なのだ。

 

まずは、それを認めなくてはならない。

 

「私は普段、こんなにブサイクな表情をしているのか」

と、インカメを誤作動したとき、素直に認められた人だけが、

普段の表情を変える行動に移ることができる。

 

では、どうすればいいのか。

 

それは、一言に尽きる。

 

普段、なにを考えるか。

 

である。

 

一昔前、「人は見た目が9割」という本がヒットしたことがあった。

ぼくはあれは真実だと思っている。

 

もちろん、生まれ持った容姿は変えられない。

しかし、「表情」はその人が普段なにを考えているか、

どういう考え方、人生観をもっているか、

が如実に表れてしまうものだと思う。

 

そして、持って生まれた容姿以上に、人は表情に魅力を感じるものだと思う。

 

ブサイクな人がお茶目にニコっと笑っていれば、

「ブサ可愛い」という称号を得られるかもしれないが、

もって生まれた容姿がいくら美人であっても、

暗く、沈鬱な表情をしていれば、台無し、どころか、

「この人は綺麗だけど、近づきたくない」

と思われてしまう。

 

その表情には、やはり、その人の人生観、考え方が出てきてしまうのだと思う。

 

明るい考え方をもっている人は、自然と明るい表情を持つ。

暗い考え方はその逆だ。

 

もちろん100%明るい人などいないし、逆もそうだ。

明るいようにみえる人も、悲しい思い出だってあるだろうし、

暗い人もまさか一度も笑ったことのない人はいないだろう。

さまざまな感情をもつ生き物であることは大前提。

しかし、その感情の表に出てきやすさには差がある。

明るい人というのは、明るい面が出てきやすい人のことをいうのだ。

それは意識的かもしれないし、無意識的かもしれない。

 

その感情の出てきやすさの結果が表情となって現れるのだ。

だから、表情というのは、その人が普段なにを考えているか、

どういう感情が前に出てきやすいのか、の「リトマス試験紙」的役割を果たすものだと思う。

 

つまり、インカメで絶望したのなら、普段の考え方を変える必要があるということだ。

 

じゃあ、その人生観、考え方はどうやって自覚して、どう変えていけば良いのか?

 

それは、2つのアプローチがあると思う。

 

1つめは、自分自身を見つめる道。

2つめは、まわりの人に学ぶ道。

 

1つ目に関しては、客観的な視点で見る必要がある。

インカメのブサイクな表情、というのがそれだ。

まず冷静に、自分自身を第三者からの目線で見つめてみる。

外見だけでなく、内面もそうする。

具体的に、どうするか。

日記やブログを書く、というのはとてもいい方法だ。

自分が普段なにを考えているか、を意識的にも考えなければ、

人は自分が普段なにを考えているか、実はあまりわからないものだと思うからだ。

書くという作業をすることで、自分自身の考えを見つめ直すきっかけになる。

人と話すというのもいいことだ。

ただし、「昨日みたドラマよかったよねー」的な会話はあまり意味がないと思う。

「わたしはこう思う」という自分の意見を出すことに意味がある。

だから、「昨日みたドラマのあの場面は個人的にツボだった!」というようにすれば良いのだ。

 

2つめのまわりの人に学ぶ方法について。

 

人は、周りの人に影響される。

これは経験的にも、明らかだ。

 

一番影響を受けるのはやはり家族だろう。

生まれてからたいていは大学生くらいまで、ずっと一緒に生活するのだから、

その影響を受けないわけがない。

遺伝的にも親の影響というのは無視できない。

良い影響もあれば悪い影響もある。

どの家庭に生まれるか、育つかは、個人の選択権がない。

しかし、それをどう受け止めるか、は個人が自由に選択できる。

良い家庭に育ったと思うなら、素直にその良い影響を認めれば良い。

悪い家庭に育ったと思うなら、自分がそうならないようにすればいい。

 

このあたりの話はまた別の機会に書きたい。

 

さて、まわりの人に学ぶ方法である。

前述したように、人はまわりの人に影響される。

 

進学校が優れているのは、その学校の伝統や教育システムももちろんあるだろうが、

「集まる人たちが優秀」というのが一番大きなポイントだろう。

まわりが好奇心旺盛で、チャレンジ精神旺盛な人ばかりであったら、自然と自分もそうなる可能性が高い。逆に不良ばかりだったら、自分もそうなる可能性が高い。

 

どの環境に行くか、というのは、もっとわかりやすく具体的に言えば、

どういう人たちに囲まれるか、ということだ。

自分でその選択が自由に行えるのであれば、精一杯努力して、

最善の環境に身を置くべきだ。

受験勉強も就職活動も、すべて、この点を忘れてはいけないと思う。

 

しかし、残念ながら、自分の思っていたような環境に行くことができなかった人、

実際行ってみたら、予想していたような素晴らしい環境ではなかった人、

また前述した「家族」のように、自分ではどうしようもない環境にいる人はどうすればいいのだろうか。

 

もし移ることができるのであれば、さっさと移るべきだ。

不満があるのに、タラタラ文句を垂れているのは、

実はその「不遇な環境にいるワタシ」が好きなだけかもしれない。

超かっこ悪い。

考えるのなら、「どう良くするか」だろう。

もし移ることのできない環境なのであれば、その環境でできる最善のことを考えて実行すればいい。

 

そして、まわりの人がもし本当にクズばっかりなんだとしたら、

それはそれで反面教師的に利用し、それ以上はそいつらに関わるのは無駄だ。

たとえ家族であってもだ。

 

そのかわりに、外部の情報に接するようにすればいい。

昔から、本を読むというのはその優れた方法の一つだった。

現代は優れた本が数多くある。先人たちに感謝しなくてはいけない。

古典的な名著は、特に優れている。

ぼくもようやくそういう本を読み始めたところだ。

 

そして、若い人は特に、現代の情報テクノロジーの発達に感謝しなくてはならない。

優れた記事、ブログは星の数ほどある。

それを無制限に読むことができるからだ。

また活字だけでなく、動画や音声もある。

YouTube、TEDをはじめ、一昔前では考えられないくらい、

スゴイ人の情報を手に入れやすくなった。しかも無料で。

これを利用しない手はない。

 

しかし、いくら優れた情報が転がっているからといっても、

それを選べないのであれば、むしろ害になる。

ゴミ情報もまた、星の数ほど多いのだ。

情報リテラシーとよくいわれるが、

その本質は、「本当に役にたつ情報を効率よく手に入れる」ということだ。

悪口ばかり、噂話ばかり、根拠のない話、自慢ばかりのSNS

のようなサイトを見ている人が情報リテラシーがあるとはいえない。

 

なにが優れているのか、を見抜く自信がないのであれば、

情報の洪水に飲まれてしまう。

 

また話が脱線してしまった。元に戻そう。

 

まわりの人が優れているにしろ、ダメな人にしろ、

どう学ぶか、は自分次第だ。

手っ取り早いのは、やはり、環境を変えてしまうことだ。

それが無理なら、まわりの人のいいところを見つけて、取り入れること。

そして、外部の情報を利用すること。

本や動画、ブログなどは優れたツールだ。

それらをどう取り入れるか、も考える必要がある。

この話も長くなりそうなので、別の機会にゆずる。

 

長くなってしまった。

そろそろまとめて終わりにする。

 

インカメで絶望した人。

それは表情が絶望的だからだ。

表情が絶望的、ということは、

普段の思考、ライフスタイルが絶望的ということだ。

 

では、どう変えるか。

1つ目は内観。

自分自身がどういう考え方をしているのか。

どういう表情をしているのか。

冷静に見つめる。

その際、インカメなどの写真、

そして日記やブログなどが役に立つ。

 

そして2つ目。

まわりの人に学ぶ方法。

環境の影響は絶大だ。

もし変えることができるのなら、さっさと変える。

変えられないのであれば、その中でできる最善のことを考える。

そして、本や動画などを通して、普段接することのできない人の影響を受ける。

そのようにして、まわりの人の優れた点を取り入れることで、

自然と自分の普段の考え方、人生観が変わり、

そして表情も変わる。

 

この2つのアプローチをとることで、

インカメで絶望する機会も減ってくるだろう。

 

 

(ここから余談)

なお、毎回言っていることですが、

偉そうにこうやって書いている僕自身は、まったく偉くありません。

なぜ、偉そうに書くのかというと、

第一に、自分自身に言い聞かせるためなのです。

これは自分自身に対する説教なのです。

また、僕自身が考えたこと、というのはほとんどありません。

いままでどこかで仕入れてきた情報を、

ぼくなりに編集しているだけなのです。

「なんなんだ、この偉そうなやつ」

とイラついた人がいましたら、すみません。

 

長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。