ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

思いつきで行動するのはいいが、少しでも怪しければ即引き返す決断を。

このあいだ、

 

kazfumi.hatenablog.com

 こんな記事を書いたあと、

 

kazfumi.hatenablog.com

こんなことになってしまった。

自分でも笑ってしまう。

 

思いつきで行動するのは、確かに強くて、魅力あるが、

そこには、必然的に「スキ」が生まれてしまう。

なんとなく、という感覚でしかないので、

そこに付け入られてしまう恐れもあるのだ。

このことを痛感した出来事であった。

 

しかし、明らかに怪しいな、と思って、

手遅れになる前に引き返したのがまだ良かった。

そのままグダグダその場にいたら、どうなっていたかわからない。

ギリギリだった。 

 

思いつきで行動すると、

こういうちょっと怪しい場面というのもでてくるということだ。

 

今回は本当にわかりやすく「あ、これはやばい」と気づけるような内容、雰囲気だったから良かったものの、自分で気づかないうちに泥沼にハマっているような巧妙な手口というのも存在するだろう。

今回、思いつきで行動した結果得られたものは、そういう「巧妙な手口」に対する警戒心を持て、という教訓だった。

今後、いつそういう場面が訪れるかわからない。

 

しかし、ぼくはその現場にいくまでは、本当にまったくわからなかった。

いや、わからなくても当然だったのかもしれない。

なぜなら、誘ってくれた人やその友達たちは、本心で良いと思い、そのまま行動していたようにみえた。そこには偽る心、卑しさはなかったように感じられた。

だから気づくのが遅れてしまった。

もし、それがすべて演技だったのだとしたら、怖すぎる。

人間不信になってしまいそうだ。

 

(ここから追記)

今、思い返してみれば、そのイベントや主催者について事前にちゃんと調べてから行けば、こんなことにはなっていなかった。「 現場にいくまでまったくわからなかった」というのは言い訳だ。甘い。

あと、単純にぼくの人を見る目が養われていなかっただけだ。

(追記ここまで)

 

演技でなく、本当に純粋に良いと思っているとしたら、

その人たちはもう、泥沼にはまっていたということだ。

自分で自分がいまどういう状況にいるのかわからない麻痺状態なのだ。

客観的にみれば、本当にバカバカしい内容なのに、熱心にうなずいたり、全然笑えない冗談ともつかない意味不明な場面で笑ったり、もう洗脳されているとしか思えない。

もしかしたら、ぼく以外全員サクラだったのかもしれないが、反応を見る限り、そうとは思えなかった。

こんな馬鹿げた手口で、こんなにたくさんの人がひっかかっちゃうんだ、と衝撃的なぐらいに。

 

話をしてみれば、普通の会話もできるし、人間的な魅力も感じる人ばかりであった。

なのに、なぜ、あんな訳のわからないところに行くのか。

論理がすべてではない、とは思うが、

やはり論理も大切だ。

 

そして、自分の論理がきっぱりと怪しいと判断したなら、

たとえどれだけ仲良くなろうとも、すぐその場で縁を切る決断をしなければならない。

さっさと引き返す勇気をもたなければならない。

「あんなに仲良かったのに、、、」

という心理を利用しているだけかもしれないから。

 

なにも、スピリチュアルが完全に悪だとはおもわない。

この世にはたしかに、論理では説明できないことというのもあると思う。

しかし、それを悪意的に利用してしまうとなると、アウトだ。

 

論理では説明つかないこと、というのは確かに存在すると思う。

しかし、その「不明瞭さ」「不確実さ」に人は本能的に恐れを抱く。

だから、宗教や科学、「なぜ、こうなんだろう?」という学問が誕生してきた。

しかし、あるところまでしか行き着くことはできない。

わからなさ、というのは大切にしなくてはいけない感覚だ。

それを失ってしまうと、人間は傲慢になる。

しかし、それを利用してしまうのはアウトなのだ。

 

不可思議さ、論理では説明できないこと、というのは

個人的な体験、個人的に追及すべきもので、

人に強制すべきものではない。

共感、まではまだセーフだ。

すべての芸術作品はそれを表現しようとしている。

しかし、利用しようとした瞬間、アウトだ。

すべてのカルトはその性質を持っている。

 

だから、芸術作品は味わうべきもので、解説されるべきではない、というのは本当だと思う。

まあ、解説されたところで、その本質は説明できるものでもないのだが。

表面的なことしか、説明できない。

 

kazfumi.hatenablog.com

 

 

禅の教えにも、「不立文字」というものがある。

禅の真髄は言葉では絶対に説明できない、という教えだ。

だから、「禅問答」みたいな論理を超えた問いも生まれたし、

「只管打坐」というひたすら、行動しか説明しない教えもある。

不可思議さ、禅の真髄は、個人が到達するしかない、という態度を貫いている。

 

ちょっと話がそれてきてしまった。

ここらへんの話はまだ勉強中なので、またまとまったら書こうと思う。

 

今回の結論。

「思いつき」「直感」で行動するのはすごくいいが、

そこに付け入られそうになったら、即、引き返す決断をしなければならない。

ということ。

また、「思いつき」や「直感」がきっかけとなるのは良いが、それと同時に論理的に詰めていく作業も怠ってはならないということ。「本当だろうか?」「そもそもどうなっているんだろうか?」など。

ぼくがこのブログで散々書いてきたことなのに、このぼく自身がまったくできていなかったことだった。めちゃくちゃ恥ずかしい。

この基本ができていなかったから、今回のことのようになってしまったのだ。

結局は、ぼくの考えの足りなさがすべての原因だった。

今後、気をつけたい。