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ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

100点満点はロボットに任せて、60点70点を取ることを目指す。

100点満点には、もうあまり価値がなくなりつつあると思う。

どういうことだろうか。

 

そもそも、100点満点とはどういうことなのだろうか。

 

あらかじめ答えが決まっていて、そこから一歩もハミ出すことなく解答できたときの状態をいう。

つまり、答えが決まっているときにしか、100点満点は出ないのだ。

 

100点満点を出すために必要になるもの。

突き詰めて考えていくと、それは「記憶力」「暗記力」になる。

いかに、模範的な答えを思い出せるか。

数学の問題では、

確かに難問とよばれるものは、ただの「暗記」だけでは解けないようになっている。

しかし、必ず答えが存在するとわかっているものしか問題になり得ない。

問題を解く側は、「答えがある」という前提を疑うことなく、とにかく答えを出せばいい。

そのためには、これまで使ってきた知識を組み合わせたり、「そもそも何が求められているのか?」を考える必要があるかもしれないが、根本では、「答えがある」ということを疑わないのだ。

つまり「答えが必ずある」という安心感をベースにしている。

そしていかに効率よく綺麗にその答えを導き出せるか、が100点満点においては大事とされてきた。

そのためには、大量に解法パターンを暗記し、それをすぐに引き出せる記憶力を持っているものが有利になる。

 

なかには確かに天才的に、その場で一から自分の頭で解法を作り出してしまう人もいるが、ごく一部だろう。

 

しかし、こういう効率よく答えをだす頭の使い方は、もう、あまり役に立たなくなりつつあると思う。

いや、たしかに、そういう頭の使い方ができる人は頭が良いのだろう。

しかし、それだけではもう、なにか新しいことを生み出すことはできなくなりつつあるのだ。

 

なぜなら、これからは「なにが答えなのか?」がますますわかりづらくなっていく世の中になると思うからだ。

セクシャリティの問題にしろ、移民の問題にしろ、臓器移植の問題にしろ、尊厳死の問題にしろ、そういう問題がここ最近目立つようになってきている。

「答え」があらかじめ存在して、それを効率よく導き出す能力は、

そもそも「答え」がなんなのか、を考えなければならない時代では、むしろ障害になってしまうかもしれない。

というか、時代うんぬんより、僕たちが現実に生活する日常には、「答え」がない問題の方が多い。

 

さて、ではどうするか。

 

100点満点のテストで、60点、70点をとってしまうことを目指すのだ。

 

もちろん、あてずっぽうに答えを出して、その結果減点される、というのはあまり意味がない。その態度は100点満点を目指す姿勢の裏返しだからだ。

そうではなく、考えた末に、自分なりの答えを出したけれど、模範解答ではなかった、という部分に、意味がある。

 

本当に頭を使う、というのは、自分なりに答えを出そうとする道のりのことをいうのではないだろうか。

ああでもない、こうでもない、と試行錯誤する過程。

 

数学の試験でも、答えが書かれていなくても、途中まで書いてあれば点がもらえる場合みたいのがあったが、そういうことだ。

 

むしろ間違っている方が、本当に自分の頭を使って考えた証拠となるかもしれない。

 

それは決してロボットには出せない、人間的な魅力になると思う。

 

結果的には間違っているかもしれないけれど、その思考過程は、出題者すら思いつかなかったような道筋かもしれない。

もしかしたら、全然見当はずれかもしれないけれど、その見当はずれの方向に行ってしまう「エラー」をだしてしまう人間らしさ。

それが、これからの世の中では大事になっていきそうであると思う。

 

ここまで、ものすごく抽象的な内容になってしまっている。

 

つまりなにが言いたいのか。

 

「答えがなんなのかわからない」という場合には、

100点満点をとる人よりも、60点70点をとってしまう人の方が適応できるかもしれない、ということだ。

 

もちろん、100点満点を取れればそれに越したことはない。

しかし、100点満点を取ること=絶対正しいという図式はもう古いのではないかということ。

センター試験がもうすぐなくなるらしいが、それは100点満点至上主義から脱しようとしていることの表れかもしれない。

 

答えがなんなのか分からない時代においては、

自分で答えを作っていくしかないのだ。

その「答え」は100点満点とはいえないかもしれない。

60点70点かもしれない。

しかし、「答え」がなんなのかわからないから、点数のつけようがない。

「そういう答えもあったのか」という答えがいくつも出てきていい。

 

そして、100点満点の答えにはない魅力が60点70点にはあるかもしれない。

ある人にとっての60点70点がある人には120点に感じられるかもしれない。

もちろん、逆に自分では130点と思っていても、ある人からすれば20点かもしれない。

「答え」がそもそもないので、そういうことも起こりうるわけだ。

 

いずれにしろ、自分が結論を出す、ということが重要になるわけだ。

どこかに存在する答えに合わせに行くのではなく、

「自分はこれが正しいと思う」という答えをだすこと。

もちろん、「これが正しい」と思うためにはある程度の常識的な見方も持っていなくてはならないし、人道に反するようなことを自信を持って出せるわけがない。

過去の事例とか、優れた考え方、というのは確かに参考になるかもしれないが、

あくまで参考にしかならない。決断を下すのは自分なのだ。

 

そして、100点を狙いにいった答えというのは、あまり面白くないことが多い。

一言でいえば、「無難」で「予想通り」になる。

それはどこかに「答え」を想定して、そこに合わせに行く感じがしてしまうから。

そうではなく、「え、そんなのアリ?」みたいな答えは、従来の考えからすれば60点70点であったかもしれないところにあったりする。

 

ジーンズでは穴が空いている方が価値が高かったりするが、

普通、服に穴が空いてたら、価値が下がるだろう。

服には穴が空いていない、が100点満点とするなら、

穴があいているジーンズは本来60点、70点となる。

しかし、穴があいているからこそ、ある人にとっては130点の価値がついたりするのだ。

 

60点、70点だからこそ、100点を超える可能性もある。

100点は100点でしかない。

 

そして、人間らしい答えというのは、100点を目指したところにはなくて、60点70点を取ってしまうところにある。

これからは、そういう60点、70点が大事になってくる時代だと思う。

100点満点を目指すのは、AIとかロボットに任せておけばいいのだ。

彼らの方が人間よりも正確に100点満点をとれるだろうから。

だったら、我々人間は、60点70点を取ることを目指せばいいのだ。

 

というよりも、点数そのものより、

60点、70点のものに130点の価値を見出してしまう見方、そこに価値が出てくるかもしれないということ。

答えそのものより、「その答え面白いね!」と評価するその姿勢にこそ価値があるかもしれない。

100点満点をつまらないと思う、その感性が大事になるということ。

 

そしてそういう感性の持ち主にヒットするのは、やはり100点満点ではなく、60点70点の答えの方である可能性が高い。

 

つまり、100点だろうか、と気にするより、60点の答えを堂々と出してしまう方が強いかもしれないのだ。

 

下手なら下手なりに堂々としてしまう。

 

岡本太郎もこう言っている。

「他人が笑おうが笑うまいが、自分で自分の歌を歌えばいい」

と。

 

 

この記事は 

この本を参考にしました。