ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

全てのモノの成り立ちを想像するのは楽しい。

この世にある全てのモノは、

誰かの意図が元になり、

様々な紆余曲折を経て、

流通に乗り、

我々の手元まで来ている。

 

それを想像で遡るのが楽しいという話です。

 

例えば、僕はいまノートパソコンでこのブログを書いている。

AppleMacBook Proだ。

大学入学のときに父親に入学祝いとして買ってもらった。

もう4年も前の話になる。

4年前、AppleからこのMacBookが届いたときは、ものすごく興奮したのを覚えている。

Appleはパッケージまで、いや、パッケージこそ洗練されていた。

ものすごくシンプル、かつ美しかった。

そのパッケージも、誰かが必死に考えてデザインしたものだ。

そのパッケージの材料は紙だった。

その紙を選定した理由はなんだったのだろう。

その紙はどこで作られたのだろう。

そもそも、紙がパッケージに使われたのはいつからなのだろう。

とか、想像するのだ。

 

Macそのもののデザインも、もう有名な話だが、

究極のシンプルさを追求するための、かなりの試行錯誤の結果である。

キーボードはアルミの美しい一枚の板が連続して作られている。

(ぼくはキーボードの汚れをなくすもっと優れたデザインが可能だと思うが、実際それがどのようなものかはまだ分からない。いずれ出てくるはずだと信じている)

この金属成形もかなりの苦労があったのだと想像できる。

 

あと、キーボードの配列もいつからこの配置なのだろうか。

なぜこの配置なのかも、理由があるはずだ。

おそらくタイプライターからきているのだと予想できるが。

 

それから、中に組み込まれている複雑怪奇なコンピュータの部品など。

ぼくにとっては魑魅魍魎の類でしかない。

全くわからない。

しかしそれも遡ればフォン・ノイマンとかそういう人が出てくるのだろう。

マイクロチップとか、インテルとか、名前だけしか知らない。

それを生き生きと想像できる人は、パソコンオタクと呼ばれる人たちだ。

そういう人は、成り立ちを知っているから、パソコンが好きなのだ。

 

コンピューターだけで、この記事が終わってしまいそうだ。

それぐらい、様々な経緯を経て、このAppleMacBookは作られたのだな、と想像するのが楽しいのだ。

 

もっと単純なものでも、もちろん楽しい。

例えば、ぼくはいまコーヒーを飲みながらこれを書いている。

コーヒーを入れているコップは、陶器だ。

福岡の太宰府天満宮に一人旅したとき、その参道に出店していた陶芸屋さんで買った。

どういう会話をしたかも、どんなお店だったかも思い出せる。

優しくて人懐っこくて、親切な人だった。

その人が丹精込めて作ってくれたコップだ。

それを想像すると、このコップでコーヒーを飲むのが一層美味しくなる。

 

例えばコンビニとかに行ったときも、お菓子の棚をみるとき、

「このパッケージはどういう経緯でこのデザインになったのだろう」

とか

「この味になるまでにはどういう経緯を経てきたのだろうか」

と考えるのが楽しい。

すべての製品には、必ず誰かの意思決定の結果が表れている。

デザイナー、経営者、広報、営業、流通、すべての部署の人たちの意思決定の結果なのだ。

他にもあったかもしれない、幻のデザインというのもごまんとあるのだろう。

それらすべてを切り捨てて、最後に残ったものが、いま、店頭に並んでいる。

そう考えると、世の中には教材となるものがあふれている。

超一流の人たちが実際に売るものとして、発表したものしか表に出てこないから。

その意思決定の結果が、製品として世に出ている。

だから、実際に売られているものを観察するのが一番効率的なデザインやマーケティング、広報などの勉強の方法であると思う。

その際、それらの製品がどういう過程で生み出されてきたのかを考えるのが有効だ。

 

有効とかどうこうより、単純に、それを想像するのが楽しい。

 

そうした想像をすると、より大切にモノを扱うようにもなる。

できれば、何かを買う時には、それを買った時のことを思い出せるモノだけを買いたい。

このコーヒーのコップのように。

 

例えば鶏肉を買ってきて焼く時とかも、

この鶏はちゃんと生きていた生き物なんだよなあ、と必ず意識するようにしている。

「鶏肉」という製品でもあるが、ちゃんと生きて動いていた生き物でもあったのだ。

どこの養鶏場で育ったのだろうか、

どういう人に育てられてきたのだろうか、

想像するしかないが、何かしらの過程を経て、食卓に上っている。

それをしっかり想像することは、やっぱり大事なことだよな、と思う。

学校の道徳の授業ではないけれど、やっぱりそういうのは忘れてはいけないことだと思う。

 

いま飲んでいるこのコーヒーも、

ブラジルかどこかの農園で育てられて収穫されたものだ。

その様子をぼくはまだリアルに想像することができない。

それをリアルに想像できたら、きっとこのコーヒーもよりおいしくなるのだと思う。

 

素敵な人は、自分の持ち物を大切にしている。

それは、それを得るまでの過程をしっかり記憶しているからではないか。

どこで買ったのかとか、誰から買ったのかとか、どういう試行錯誤を経て作られたものなのか、を知っている。

もしくは想像できるからではないか。

成り立ちを知るということは、より好きになる方法なのだ。

だから、自分で作ったコップとか、DIYで作ったものはより愛着が湧くということなのだろう。

 

だとしたら、

やっぱり歴史を学ぶ意味というのもそこにあるのだと思う。

 

人類がどのように発展してきたのか。

この日本はどういう風に生まれてきたのか。

それを知っているのと知らないのとでは、

生き方そのものが全く変わってくるだろう。

 

もっと身近な話でいえば、

両親の昔の話を聞くこととか、

祖父母の話を聞くこと、

自分の小学生時代を思い出すこと、

そういう成り立ちを思い出すことは、

やっぱりいまの自分を知るために不可欠なことであると思うし、

それをしっかりしている人はやっぱり魅力的だと思う。

思い出したくない記憶も含めて。

隠そうとすればするほど、自分が不透明に、よく分からない存在になってしまうと思う。

誰かの助けを借りながらでも、しっかり思い出す方がいい。

 

小説を読むと、

「ああ、やっぱり自分だけじゃないんだな」

ということが多々ある。

小説を読むのがなぜ楽しいのか、といえば、

それはやっぱり自分と関連付けられるからだろう。

それがあることで、自分自身の成り立ちを知る大きな助けになる。

 

すべてのモノ(具体的なモノではないかもしれない)の成り立ちを想像すること。

もしくは思い出すこと。

それは、やっぱり楽しい。

楽しいだけではなく、より確実に生きていくための優れた方法だ。

だから、歴史を勉強することはものすごく楽しい。

デザインの勉強をするのも楽しい。

「へー、こうやって生み出されてきたんだ!」

と知ること。

 

今後も、ずっと継続していきたい楽しみの一つだ。