ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

見返りを求めないということ。

ある日のこと。

先日旅をしている途中で、友人の自宅に泊めてもらった。

山に近い、自然豊かな地域で、朝には霧が立ち込め、夜には虫の声が聞こえるような美しいところだった。

 

その友人のご両親は、全く初対面のぼくのことを暖かく歓迎してくれた。

お父さんが料理が趣味ということなので、夕飯には自慢の手料理をわんさか出してもてなしてくれた。

そして友人家族揃っての夕飯。

仲のいい家族なんだなあ、ということがよくわかる、とても楽しい夕食だった。

 

お風呂も沸かしてもらって、タオルも貸してもらって、1日の汗をすっかり流したあと、今度はお酒を飲みつつまた話がはずむ。

ご両親とも話好きの人たちで、友人もそれを受け継ぎ、しゃべることしゃべること。

とても楽しかった。

 

夜も遅くなって、そろそろ寝よう、というときには、ぼくのために一室用意してくれてふかふかの布団で寝ることができた。

 

翌朝は軽く朝食を食べたあと、友人に車で駅まで送ってもらい、そこを後にした。

これだけ色々してもらったのに、不思議と負担に感じることはなく、とても居心地がよかった。

 

それは、彼らが全くあたりまえのように、こうしたおもてなしをしてくれたからだ。

そこに見返りを求める心は全く感じられなかった。

 

今回は、この「見返りを求めないということ」について考えたいと思う。

 

見返りを求めるということ

その前に、逆に見返りを求めるということはどういうことなのか、考えてみたい。

 

結論からいうと、

見返りを求めるということは、その対象に依存していることだと思う。

「これだけしたんだから、これだけしてくれるだろう」

という考え方は、その対象から何かを受け取ることを期待している。

相手の出方しだいで、自分の精神状態が揺らぐ、ということはつまり、相手に依存しているということだ。自分の精神状態の主導権を握っていないということだ。

 

 

kazfumi.hatenablog.com

 

 

また、見返りを求めるということは、素直に「これが欲しい」と言えるだけの強さがなく、遠回しに何かを要求する卑しさが感じられる。

そして、なにもなかったときには、「あれだけしてあげたのに、なんにもないのか?」と裏でコソコソ怒る。それは、期待していたようなものが受け取れなかったからだ。

でも、見返りを求めていた自分の卑しさにまでは意識が向かない。

 

見返りを求めないこと

ではいよいよ本題について。

 

見返りを求める、ということは、対象に依存すること、と書いた。

見返りを求めないということは、まさにその逆で、対象に依存しないことなのではないか。

 

相手がどう感じてくれるかはわからないけれど、自分たちはこうやっておもてなしをすることが本当に楽しい、あたりまえのことだ、と行動できるのだ。

 

相手が楽しんでくれるか、喜んでくれるか、は語弊を恐れずに言えば、「ご勝手に」という感じだ。自分たちが楽しむことを第一に考える。

自分たちが楽しむためには、相手も一緒に楽しんでもらったほうがいい、だからおもてなしをする。

そういうことなのではないか。

 

見返りを求めない、とはいうけれど、かれらにとって、一番嬉しいお返しは「純粋に楽しむこと」だと思う。また語弊をおそれずにいえば、「図々しくうけとる」ことではないか。

 

変に恐縮して、「ありがとうございます。いずれお返ししますので」みたいな風に返されると、たぶんせっかくのおもてなしも台無しになってしまう。

そんなお返しなんていいから、純粋に「うめえ!」「超楽しい!」みたいに楽しくやることが一番大事なことのように思う。

 

それで、そうやっておもてなししてもらった側も、今度は別の誰かにその楽しさをおすそわけしていくことが一番いいのだと思う。

ぼくも、友人の家に泊まらせてもらって、「ああ、おもてなしってこういうことなんだなあ」とつくづくと感じたし、それを今度は別の誰かにおすそわけしたいなと感じた。

 

 

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