ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

コミュニケーションの本質は情報交換

「コミュ症」という言葉がある。

一般的に、人とコミュニケーションをとるのが苦手、ということを病気の症状のように表現した言葉だ。

一方で、「コミュ力高い」という褒め言葉もある。

一般的に、コミュ症の逆で、誰とでもすぐに打ち解けて仲良くなれる人のことを言う。

 

こういった言葉が生み出され、広く浸透するほどに、

人々の「コミュニケーション」に対しての関心は高い。

 

大ベストセラーとなった、『嫌われる勇気』でも、

「人間の悩みを突き詰めると、全てが対人関係、コミュニケーションの問題になる」

ということが言われていた。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

これだけコミュニケーション、コミュニケーションといわれる割には、

「コミュ力大事だよね!」「もっとコミュニケーション大事にしよう!」ぐらいの、なんだか漠然としたことしか言われていない気がする。

 

そこで、今回は、「そもそもコミュニケーションとはなんなのか?」について改めて考えてみたいと思う。

 

コミュニケーションの本質は情報交換

ぼくなりの結論は、コミュニケーションとは、突き詰めれば「情報交換」だと思う。

明るいとか、人当たりが良いとか、人見知りをしない、などは意外と副次的なものに過ぎないのではないかと考えている。

それらは情報を交換するのに有利、というだけであって、本質ではない。

 

コミュ力が高い人、というのはどういう人のことだろうか。

「コミュニケーションの本質が情報交換にある」という仮説からいうと、

コミュ力の高い人とは、自分に関する情報提示がうまく、かつ他人の情報を読み取る能力が高い人のことをさすのではないか。

 

自分に関する情報提示がうまい、とは「わたしはこういう人間です」ということがわかりやすいという事である。

得体の知れない人に対して、人は普通は警戒心を持つ。これは人間がサルだった時代からの習慣だろう。

 

全くの初対面である場合、最も大きな情報となるのはやはり外見やしぐさだろう。

人は見た目が9割』という本が昔大ベストセラーになっていたが、ぼくは割とそのとおりだなと思っている。

一般にコミュ力が高いと思われる人たちは、確かに明るくて、垢抜けていて、表情なども豊かな人が多い。そうすることで「私は情報を受け取るのも伝えるのも好きですよ〜」ということをわかりやすく伝えることができるからだ。

人は見た目が9割 (新潮新書)

人は見た目が9割 (新潮新書)

 

 

だが、いかにも「わたしはコミュ力高いです」ということを狙ってやるのも、また不自然となり、人は直感で「あ、この人無理してるな」ということがわかるので、外見から入ろうとしても、あまりうまくいかないことも多い。

 

第一、コミュ力の高い人が全員が全員、明るい人であるとも限らない。

なぜなら、「コミュ力高い」とはあくまで「情報交換がうまい」ということであって、「明るい」は必須ではない。

いかにも口下手で、物静かそうな人であっても、抜群にコミュ力が高い人というのも居ると思う。口数は少ないけれど、「この人と話しているとなぜか安心感があるんだよな」という人は間違いなくコミュ力が高い。ボソっと放つ一言が、核心をついていたりするから。

 

外見は確かに大きな情報の一つだが、やはりコミュニケーションの核となるのは言語だろう。つまり「おしゃべり」だ。

言語によって、外見にはあらわれない、内面の心情についても情報交換することが可能となる。そして、外見以上に、内面のほうが奥が深いのは誰もが認める事実だろう。

 

しかし、言語はあくまでも、情報を誰にでもわかる形に変換する道具にすぎなくて、100%完全なものではない。だから「行間を読め」という言葉も生まれている。

「おしゃべり」はあくまでも方法であり、本質は「情報交換」だ。

 

しかし、コミュ力が高い人というのは、やはり情報そのものと、言語による表現との間の差が少ない人のことを指すのだと思う。

もしくは情報そのものと言語との間のズレを想像によって埋めることのできる人。

 

「私って明るいし、コミュ力抜群なの!」という自称コミュ力ある人は実はこの情報交換があまりうまくない人も多いと思われる。

なぜ、うまくないのか、というと、情報そのものと、表現の間の差を埋めることができないからだ。

たとえば「昨日みたドラマがめちゃくちゃ良かったんだよ!」という典型的なおしゃべりであっても、コミュ力の高い人は「なぜ、良いと思ったのか」と自分とのコミュニケーションをして情報の解像度を上げることができるため、ドラマの内容から離れて、そのドラマの「情報」という本質の部分で話ができる。そうした会話はとても面白くなる。

対してコミュ力の低い人は「超良かったー!めちゃくちゃやばかったよねー!」で終わるだけだ。自分が本当に言いたいこと、「情報そのもの」を言語化する能力が低いから、「やばい」という便利な道具を使う。

 

情報提示に関しては、自分のことについてであるので、まだ「言いたいことと言ってることがズレてるなあ」と自覚できるからいいが、他者の情報の読み取りということになると、想像によって補完するしかないのでどうしても不確かなものになってしまう。

 

「君の言いたいことってつまりこういうこと?」「いや、そうじゃなくて、もっとこう・・・」といった情報交換を繰り返すうちに双方の間で情報の解像度が上がり、共通の理解に到達できる。

コミュ力の高い人、というのはこの作業が得意な人のことをいうのだ。

一方、友達と喧嘩をしたり、付き合っている人と別れたり、といったことは、この情報交換がうまく機能しないことによって引き起こされるのだと思う。

 

さらに、言語以外の情報交換もある。

 

赤ちゃんを産んだばかりの母親は、赤ちゃんのわずかな表情の差からでも異変を察知することができるので、抜群にコミュ力が高いといえる。

目利きの鑑定士というのは、モノの持っている情報を読み取る能力が高いので、やはり(モノとの)コミュ力が高いと言える。

 

芸術とは、言語を介さないで情報を表現しようとする行為である。言語にしてしまうと失われてしまうものというのもあるし、そもそも言語化不可能なものも多いだろう。

 

kazfumi.hatenablog.com

そのことに関しては以前にも書いたのでよければ。そのときは「神秘性」という言葉で表現した。

 

また、コミュニケーションの相手は人であるとは限らない。

物であってもコミュニケーションは可能だし、風景や自然、動物とも可能だ。

本を読む、というのもコミュニケーションだ。筆者の考え、心情、もしくは情景描写を想像すること、などビジュアルに頼らない情報交換をしている。うまい作家、すごい作家というのは、やはり、この情報伝達が抜群に優れている人のことをいうのだと思う。例えば、ぼくは村上春樹の作品をよく読むが、彼の作品はこの情報伝達力が圧倒的に高いと感じる。まるでその場に居合わせたかのような臨場感を感じる。

 

そしてなにより、人は自分自身に対してもコミュニケーションをするのだと思う。

自分のことについて100%理解している人などいないと思う。ましてや他人をや、である。「自分のことなんて全部知っているに決まってるでしょ!」という人は傲慢ですらあると思う。

たとえば誰かと喧嘩したとして、「ああオレってああいうときにイラっとするのか」とそこで自分のことについて新たに知ったりすることは多々あるだろう。

自分についても日々、コミュニケーションが必要である。日記を書いたり、こうしたブログを書いて言語化して整理するというのは自分とのコミュニケーションにとても役に立つ。

対人関係、読書などは、結局はこうした自分とのコミュニケーションの触媒にすぎない、という見方もできる。

 

おわりに

長くなってきたのでまとめる。

つまり何が言いたいのか?

 

「コミュニケーションとは情報交換」であるということ。

情報とは、視覚によるもの、言語によるもの、言語化不可能なもの、など様々ある。

コミュ力高い人、というのは、この情報交換の質が高い人のことを指す。

つまり「わたしはコミュ症だから・・・」と悩む人は、「わたしは情報交換能力が低い」と言い換えて考えたほうがよく、どうすれば情報交換がうまくいくのか、を考えれば良い。人に気に入られようとか、笑顔を意識する、とかそういうのは全部副次的なことだ。

では、情報交換をうまくするためにはどうすればいいか、というと、情報の解像度を上げることを意識すればいい。

情報の解像度をあげるには、やはり言語化することが一番有効であると思う。

その際、読書、芸術鑑賞、日記、ブログは有効な手段となる。

語彙力が多ければ多いほど、わずかな差でも表現することができるようになるので、情報の解像度があがる。また他者の言わんとすることもより正確に理解することができるようになる。

 

ということです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。