ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

悩みを課題に変換する。

悩みがある人というのは、悩むことそれ自体を目的化しているのではないか。

そんなことを以下の記事で書いた。

(『イシューからはじめよ』を参考にしている。)

kazfumi.hatenablog.com

 

kazfumi.hatenablog.com

 

 

 

 

「悩む」ことと、「考える」ことは全く別である。

 

ただし、

悩むことも全く無意味だとは思わない。

悩む事の効用ももちろんあると思うが、それはまた別に書こうと思う。

 

今回は、悩むのをやめる、という方向で考えてみたい。

 

悩みと課題

 

まずそもそも、悩むとはなんなのかについて。

最初にも書いた通り、「悩みたいから悩む」のだ。

 

もっと言うと、

答えが出てしまっては困る」のだ。

 

どういうことだろうか。

 

悩みなんて、さっさと解決したい。

きれいさっぱりオサラバしたい。

さっさと答えを見つけてしまいたい。

それが普通だろう。

 

「それができないから悩むんだよ!」

となるのが当然だ。

 

それでも悩む理由とは何か。

 

自分でもうっすらとわかっている「答え」を認めたくないだけなのだ。

 

「答え」は必ずしも、良い答えであるとは限らない。

そもそも「良い答え」になりそうだとわかっているなら、悩むどころかウキウキしてしまうだろう。

悩むというのは「自分にとって不都合な答え」がうっすらと、またはハッキリと分かっているにも関わらず、それを認めたくないという意思の表れなのだ。

 

「答え」を認めたくないがために、「悩む」という虚構の課題を作り出し、それに一生懸命取り組むことで「本当の答え」から目を背けたいだけなのだ。

 

答えを知ることよりも、悩み続ける方が自分にとって都合が良いと判断しているからなのだ。

 

しかし、その判断は果たして妥当なのだろうか。

本当に、悩み続けることが、答えを知ることよりも都合がいいことなのか。

 

例えば、

浪人の末に受けた第一志望校の試験が全く手応えがなく、自己採点の結果もたぶんダメだろう、という状況に陥っているとする。

「ああ、どうしよう、浪人までしたのに、絶望だ」と悩み続けるのか、

「不合格である」という答えがでた場合に、どういった対処があるのか、たとえば第二志望の入試にかけるとか、もう一年浪人するだけの余裕があるかとか、そもそも大学に行かないといけない理由はなにか、を改めて「考える」のか。

どっちが自分にとって本当に都合がいいのかは明らかだ。

 

例えば、

どうも特定の人(たち)に嫌われているらしい、という場合に、

「おれはあの人(たち)に嫌われているのではないか」と悩み続けるのか、

「嫌われている」という答えをとりあえず設定し、「自分に落ち度はなかったのか」とか「何が原因だったのか」とか「修復する余地はないのか」とか「そもそも自分にとってそんなに重要な人なのか」とか「修復できそうにないなら、別の居場所はどこか」を「考える」のか。

 

例えば、

「嘘をついたのがバレたのではないか」という場合に、

「どうしよう、バレてんじゃないか、やばいな」と悩み続けるのか、

「嘘はバレている」という答えを設定し、「なぜ嘘をつかなければいけなかったのか」とか「どうすれば信用を回復できるのか」とかを「考える」のか。

 

不謹慎な例となるかもしれないが、

「不治の病にかかっていて、死までもう僅か」という場合に、

「どうしよう、不治の病だ、死んじゃう、やり残したことが・・・」と悩み続けるのか、

「不治の病で死まで残り僅か」という答えを設定し、(もちろん、「本当に治らないのか」を考えに考えた上で、である)

「残り少ない時間をどう使うのか」と考えるのか。 

 

悩みは、「答え」を受け止められない時に、発生する。

しかし、その「答え」がうっすらと自分でも分かっているのなら、潔く認めてしまって「それでも自分にできることはなんなのだろうか」と考えることができれば、「悩み」は「課題」に変わる。

 

「悩み」と「課題」の違いとは、

「答え」があるかどうか、だ。

 

「悩み」は答えを設定せず、「悩み」自体に意味を見出している。

「課題」は答えを設定し、どういう対処が可能なのか、を考え、実際の行動に移すことができる。

 

だから、もし自分が何かに悩んでいる、と気づいた時は、

「自分はどういう「答え」から逃げたがっているのだろうか」

と一度考えてみることから、突破口が開けるかもしれない。

 

「なぜ、自分はその「答え」を認めたくないんだろうか」

「その「答え」を認めてしまうと、どうなるのか」

冷静に、客観的に分析するのだ。

 

理想通りの答えになれば、それに越したことはない。

しかし、そうならないのを認めたくないから「悩む」のである。

 

つまり、「理想通りにいかないとわかっているのに、それでもそうあって欲しい」というないものねだりをしているのだ。

 

「理想通りにいかない」とわかっているのなら、

次に考えるべきなのは、「次善の策」だろう。

 

もちろん、なんらかの考えがあって、完全に失敗するかもしれないが、それでも理想を追求した結果、奇跡的に本当に理想通りの結果になる、という展開もあるかもしれない。

しかし、それは「悩み」とは別の態度だろう。

おそらく、そういう時は「最悪の答え」も考慮してあるからこそ、奇跡も起きるのだ。

「答えから逃れたい」という態度とは別なはずだ。

 

 

また「次善の策」を講じた結果、別のルートを辿って、本当の理想にたどり着くこともできるかもしれない。

 

例えば、先にあげた浪人生の悩みの場合。

本当に大学に行きたいのか、を「考えた」結果、いや、別に自分でも独学でできるな、と判断し、その世界に飛び出してしまって、普通に大学を卒業するよりも豊かな学びを得ることができるかもしれない。

 

例えば、嫌われているのではないか、という悩みの場合。

「自分には落ち度はない」「誰かの悪意で嫌われている」「別にあいつらに嫌われたところでおれの人生には1ミリも影響しない」とわかったのであれば、そいつらと関係を修復するよりも、さっさとその環境からオサラバしてしまってもっと豊かで楽しい環境に移ることができるかもしれない。

 

例えば、嘘をついたのがバレたのではないか、という悩みの場合。

「ごめんなさい、嘘をつきました。でも嘘をついたのは、これこれこういう理由があって、絶対にこうしたほうが良くなると考えたからです。」と素直に言ってしまえば、その嘘が本当に通用する結果になるかもしれない。

 

例えば、不治の病で死が近いという悩みの場合。

それは、名作、『最高の人生の見つけ方』をご覧になってほしい。

 

 

ショーシャンクの空に』も言わずと知れた名作である。

主人公は、「悩む」のではなく、「考えた」。だから奇跡が起きた。

そういう見方をすると、より楽しめるかもしれない。

 

ショーシャンクの空に [DVD]

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おわりに

こんな偉そうに書いているくせに、ぼく自身はやっぱり「悩む」ことを続けてしまうだろう。

なんどもこのブログで言っているのだけど、このブログは自分自身の思考をまとめるため、という目的が第一である。

どこかの本で読んだ知識かもしれないし、映画の知識かもしれない。

それを自分なりにまとめて、書くことで、自分自身に言い聞かせる、という側面が大きい。

それに、ぼく自身が「悩み続けた」結果、「あれ、悩むってどういうことなのだろう」と実感を伴って書くことができている。

本当にこの文章で書いた通りにぼくが行動できているとは言えない。

でもこうして書いて整理することで、何かで悩みがあったときに、

「あれ、おれそういえばそんなブログ書いたよな」と思い出し、軌道修正することができる。

 

ブログという形をとることによって、第三者に向けてわかりやすく書かなければならない、という制約が加わり、自分自身にとっても後で見返した時にわかりやすい。そのメリットを存分に活用しているというだけです。

 

以上です。ありがとうございました。