ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

「イラつく」という感情とどう付き合うべきか。

「この人と会うと、無性にイラつく」

という人がいないだろうか。

 

イラつく人に出会ったのなら、さっさと別れて別の場所に移ってしまえばいい、という話なのだが、いつもそうできるとは限らない。またそうしたところでイラつきがすぐに消える訳でもない。

 

また、その人の全てがイラつくというわけではないのだけれど、

どうしてもこの部分だけはイラつく、というのは誰しもあると思う。

 

(当然、そう思う自分自身もまた、他の誰かにそう思われている可能性がある。)

 

また、相手は人ではなく、なんらかの現象や制度かもしれない。

 

この「イラつく」という感情は、持ちつづけていると精神衛生上とてもよろしくないし、イラつく姿自体、また別の誰かをイラつかせてしまうかもしれない。

 

生きていく上で、「イラつく」とどう向き合っていけば良いのかは、重要な課題だろう。

そこで、今回は、それについて考えてみたい。

 

イラつくことは、悪いことなのか。

でも、そもそも、イラつくことは悪いことなのかを考えてみたい。

ひょっとしたら、良い面もあるのかもしれない。

 

たとえば、

 

「ああいう時、俺はすげえイラつくんだよ」

「ああ〜〜!それすげえわかる!」

 

という会話は、純粋に楽しい(笑)。

「イラつく」現象があって、それを「うわ、すげーイラつく、誰かに共感してほしい」という火種を溜めておいて、誰かと共感し、バーっと発散するのは、快感だ。

 

それに、世の中の全ての「イラつく」が消滅してしまったら、なんか生ぬるい世界になってしまう気がする。

人に対してのイラつく、制度に対してのイラつく、文化に対してのイラつく、いろいろあるだろうが、

「イラつく」を解消しようと踏ん張るからこそ、劇的に進歩、改善する、という側面もあるだろう。

純粋な怒り、と表現すればいいだろうか。

その感情を失ってしまったら、それは確かに良い人なのだろうが、どうも人間臭さにかけてしまうような気がする。そしてちょっと胡散臭い人だと感じる。

 

だから、「イラつく」ということも必ずしも悪いことだとは言えない。むしろ人間にとってとても大切な感情であると言えると思う。

 

岡本太郎もそんなようなことを本に書いていた。 

美しく怒れ (角川oneテーマ21)
 

この本はとても面白かったのでおすすめする。 

 

「イラつく」ことも一概に悪いことだとは言えない。

むしろ失ってはならない感情の一つであると思う。

 

しかし、それをこじらせてしまうと、今度は一気に悪い方向へ向かってしまうと思う。

 

今回考えたいのは、どうすれば「イラつく」をこじらせずにうまく対処できるか、ということだ。

 

イラつくをこじらせるとはどういう状態か

では、その「イラつくをこじらせる」とはどういう状態のことなのだろうか。

 

イメージでいうと、まず暗い。陰湿。明朗でない。

そして、イラつくをこじらせている人は、大抵面倒臭い。ヒステリー気味だ。

 

先の岡本太郎の本のタイトルを使うと、

「美しくない」怒りだ。

 

さらに、それはどういうことなのだろうか。

ズバリ、「イラつきに支配されている状態」ということではないだろうか。

 

つまり、「私が」イラつく、のではなく、「イラつく私」、という風に、「私」と「イラつき」が分離できなくなる状態を、こじらせていると表現できるのではないか。

 

「おれはああいうときイラつくんだよ」

「ああ〜!すげえわかる!」

という楽しい会話をする時に、人はイラつきには支配されていない。

それはなぜか。

「イラつき」を客観視することができているからだ。

 

また、前になるほどなあと思ったことがどこかで書いてあって、それは、

「イライラしている人は、本当はイラついているのではなく何かに困っているのだ」

という内容だった。

その言葉を知ってから、イライラしている人をみては「ああ、この人は困っているんだな」と見る目を変えることができて、すこぶる役にたった。

で、困っているということは、それはつまりイライラに支配されてしまっているということだ。「なんでうまくいかないんだろう」と理解できないからイライラしてしまっているのだ。

つまり、イライラを分離できずに支配されてしまっている状態だ。

 

 

 

 

こじらせ解消法

「イラつき」を分離できない状態を、こじらせている、と表現した。

イラつきをこじらせると、精神衛生上よろしくないし、周りの人もおもしろくない。

 

ではどうすればこじらせを解消できるのだろうか。

 

それは、先ほどもチラッと書いたが、「客観視」なのではないだろうか。

 

 

 

客観視するとは、文字通り、自分がお客さんになったつもりで、イラついている自分とその対象とを眺めるイメージを持てば良い。

 

「おお、おおイラついてるなあ、自分。たしかにその対象はイラつくよなあ。あの表情がまたイラつかせるよなあ。なんだ、あの言い方は。うわーすげえイラつくよな。うんうんわかる、今すげえイラついてるんだろうなあ自分は」

 

という感じで、劇を観る客になった気分で、客観視するのだ。

 

客観視してみると、意外とその対象は特に問題はなくて、実は自分の方に原因があることに気がつくかもしれない。

「うわ、イラついている自分の方こそ、むしろイラつくな」と客観視できればイラつきもおさまるかもしれない。

 

本当にその対象がイラつくものなのであれば、客観視してみればそのイラつきの正体がよりハッキリと見えてくるかもしれない。客観視しても十分にイラつく、と思うのであれば、それは自分以外の誰かにとってもイラつくことである可能性が高く、そういう時に、

「おれはああいう時にすげーイラついたんだよ」

「うわ〜!すげえわかる!」

という楽しい会話が生まれるのだと思う。

 

客観視するためにはどうすればいいのかというと、

上で述べたように、劇をみるようなイメージをする方法と、

言語化してみる方法があると思う。

 

言語化するためには、「なぜ」イラついたんだろうか、「どういう時に」イラついたんだろうか、など、問いを設定してみるといいと思う。

それに答える過程で、「ああ、おれはああいうことにイラついていたんだ」と腑に落ちるかもしれない。

 

 

また、そうやって言語化できると、

「ああ、自分も似たようなことしたことあるなあ、人のこと言えないな」と気づいて、今後同じことで人をイラつかせることもなくなるかもしれない。

 

おわりに

どうせイラつくなら、気分良くイラついた方がいい。

イラつきに支配されると、自分もイライラ、周りもイライラで、何一ついいことがない。

 

一度客観視してみて、イラつきにとらわれている自分を、外から観ると滑稽だなあ、と思えるかもしれない。「そんなちっさいことでイラついてるのかよ」とあきれてしまうかもしれない。

「ああ、たしかにイラつく」とそれでもイラつくのであれば、誰かと共感して、「じゃあ、おれらで変えてやろう!」と一発奮起して、ガラッと変えることができるかもしれない。

 

でも、世の中にはどうにもならない「イラつく」も蔓延していて、完全になくすということは難しいだろう。

というより、「イラつく」というのはとても人間的なことだし、やはり無くすのではなく、うまく付き合うという方向で考えた方が、より楽しくなるのだと思う。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。