ハレバレとニッコリ笑う人生を

日々、考えたことをまとめています。

不本意なことがなければ人は成長できない

たとえば、ある日突然右手が使えなくなったとする。

その時、普段どれだけ右手を使っていたかについて、思い知らされるだろう。

右手が使えない、という「不本意」な状態がなければ、普段から「ああ、右手があってよかった」なんて思うことはほとんどないはずだ。ふつうは無意識に使っていて「いま、右手を使っている」なんてことは意識しない。それが突然使えなくなると、いかに右手を使って生活していたのか、を思い知らされる。

不本意なことがあって、始めて物事を「意識」できるようになる。

このことは、なにも身体的なことに限らなくて、心理的なことにもいえるだろう。

たとえば長年連れ添ってきた夫婦が、ある日突然片方がいなくなると、いかに相手を当たり前の存在として認識していたかを思い知らされることになる。なんでもっと大切に扱わなかったんだろう、とそこではじめて思うことになる。

 

ぼくは今、50ccの原付にキャンプ道具一式を積んで、日本を旅している最中だ。

この旅のことは、また別に詳しく書きたいと思う。別のブログを立ち上げるかもしれない。

基本的に宿は、野宿。洗濯も基本的に手で洗う。

この生活をしていると、「屋根があるってだけですごいことなんだな」ということとか、「水がいくらでもでてくる水道ってすごいな」とか、「洗濯機が無いとこんなに不便なのか」とか、「二段階右折をしなくていい車って、本当にいいな」とか、普段なら決して意識しないようなことが、急に意識されるようになってくる。

 

この旅全体が、まさに「不本意」だらけだ。その分だけ、意識できることも増えてくる。

 

ところで、そうやって普段意識しないことを、不本意だと感じることではじめて意識するようになれる、というのは本当のことだとして、それがどうして「成長」につながるのだろうか。

そもそも、ここでいう「成長」とはどういうことなのか、をここで一度考えてみたい。

(ぼくはこのブログをいつも行き当たりばったり、思いつくがままで書いているので、こうやって、書いている最中にふと気になることが出てくるのである。)

 

成長する、ということは言い換えれば、「それまでの自分と違う自分になる」ということであると思う。違う自分になる、といっても、それまでよりも「良く」なるように変わることである。悪い方向に変わってしまえばそれは成長ではなく劣化だ。

違う自分になる、とは大きく二つの側面があって、一つは肉体的に。もう一つが精神的に、ということであると思う。なお、ここではわかりやすく2つに分けたが、この二つは相関関係にあり、明確にきっちり分けられるものではもちろんない。

 

肉体的に違う自分になる、は意識しなくても普段から新陳代謝によって行われている。一番顕著にみられるのは、思春期から成人期にかけてだろうが、それ以降も微妙に変わってゆく。目には見えない変化だとしても、食べるものを変えたり、生活習慣を変えることで人の身体は必ず構成要素に変化が起きて、それまでの自分とは違う自分になっている。コンビニ弁当ばかり食べている人間と、オーガニックでバランスの取れた食事をする人間とでは、明らかに差が出てくるだろう。運動をして体力を上げたり、筋トレをして肉体のプロポーションを変えたり、髪型を変えたりヒゲを生やしたり、などによっても人は変わる。

(服装を変える、というのは肉体的なことではないが、次にのべる精神的な成長との間に位置する成長と呼べるかもしれない。)

そうした肉体的な変化をとげて、それまでの自分よりも「心地よい」「良くなった」と思えるようになれば、それは成長とよぶことができるだろう。それはあくまでも主観的な評価であって構わないと思う。

 

もう一つの成長の側面、精神的な成長について。

上でも書いたように、成長とは、それまでの自分とは違う自分になることである。精神的に成長するとは、より具体的にいうと、「世界の捉え方が変わる」「考え方が変わる」ということになるだろう。本を読むことや、人と出会うこと、旅にでること、など様々な要因があって、人は考え方を変えることができる。

また、多くの人が思い浮かべるであろう、「技能的な成長」もこの精神的成長に含まれると思う。バスケのドリブルが上達するとか、プログラミングができるようになる、仕事上の取引の暗黙知を習得する、などなど。技能的な成長も一番大きく捉えると、「考え方が変わる」ということになると思うからだ。

さて、精神的に「良く」変わる。とはどういうことだろうか。それまでよりも生きやすくなる、とか生きることに対して肯定的になる、ということである。

なお上に書いた、肉体的成長も、「生活習慣を変えなきゃ、やばいな」という精神的成長によるものだし、逆に体力が上がるからこそメンタル面も安定する、など、両者は密接に関係しているといえる。

 

さあ、これで「成長」とは具体的にどういうことなのか、ということが整理できた。

ここから問題の、「不本意」と感じることがなぜ成長に必要な要素なのか、を考えたいと思う。

 

結論から言ってしまえば、成長するためには、まず意識するということが不可欠だからである。

順調に進んでいる時、人はあえて意識しなくても物事が進んでいくので、疑問に思ったりあえて変わろうとは思わないはずだ。最初にあげた右手の例のように。

ところが、ひとたび「不本意だ」と思うようになると、次に人は「なぜうまくいかないんだろうか?」と問うことができるようになる。そして「どうすれば良くなるのだろうか」とも。そこで始めて意識しなかったことを意識できるようになり、「ああ、今まで意識すらしなかったことだけど、こういう風になっていたからうまくいっていたのか」と構造を納得できるようになったり、「この部分が問題だったのか、ならばこうすればいい」と解決策を考えてよりスムーズに物事が進むように変えることができる。そして今後似たような不都合が発生しないようにあらかじめ対策をしたり、もし同じような問題が起きた時でももうスムーズに対応することができるようになる。それはまさしく成長と呼べるだろう。逆に同じようなことをいつまでも繰り返す、というのは成長しているとは言えない。

 

まとめると、

「不本意なこと」→物事を改めて見つめ直す、意識する→考え方、対処を変える→成長する

ということになると思う。

 

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言い回しがあるが、これは人生の早い段階でいろいろな物事に意識的になって、対処法や考え方を養っておかなければ後々苦労することになる、ということであろう。

しかし、実際の人生ではいくつになっても苦労なんていくらでもでてくるはずだし、重要なのは、そういったことが起きた時に「よし変わろう」と思えるかどうか、のはずである。「若いうちにあれだけたくさん苦労したんだから、もう何が起きても変わらなくて大丈夫、安心だ」とドッカリ腰を降ろしてしまったオジサンがはたして人間的に成長しているのかどうか、魅力的なのか、疑わしいだろう。

変わることをやめたときに劣化が起きる。伝説的な画家、ピカソも常に自分の画風を作っては壊し、作っては壊し、という変化を続けたからこそ、偉大な画家になったといえるのではないか。我が国が誇る天才絵師、葛飾北斎も生涯引っ越しをすることをやめなかったそうだ。それは環境を変えてその都度自分の対応を変える必要に迫られることで、自然と自分を成長できるように仕向けていたからだと考えられないか。

 

そして、実は「不本意」な状況というのは、外部に強制されなくとも、実は自分で作り出すことができるのである。それは「なぜ?」という言葉によってである。

「なぜ?」と考え続けることは、人にとっては基本的に「不本意」な状態である。要するに「気持ちが悪い」のだ。古代の神話などは、その「なぜ?」に答える形で、納得できる物語をつくることでその「不本意」な状態を脱しようとした行為であると考えることもできる。

常日頃から「なぜ?」という純粋な目でもって世界を見つめるようにすれば、「不本意」な状態となって、人が普通意識しないことを意識できるようになり、人とは違う考え方、それまでの自分とは違った世界の捉え方ができるようになり、成長できる。

もちろん、外部から強制的に「不本意だ」と思わされない限り意識できないことももちろんある。どれだけ想像力を働かせても、実際に自分がその状況に陥ら無い限り意識できないことというのはもちろんあるだろう。

 

しかし、普段から自分で自発的に「不本意だ」という状態を作り、考える習慣をもっていれば、そうした事態に陥っても、対処しやすくはなるのではないか。

 

あえて自分を居心地が悪いと思うような状況に陥れる。そこで普段考えないことを考える。そして、それまでの自分の世界の捉え方にはなかった新しい視点を取り入れて、それまでの自分とは違う自分になる。そうすることで、人は成長できるのではないか。

 

いまぼくは旅のつかの間の休息として、友人の家にお世話になり、快適な室内でこれを書いている。ああ、屋根があって床が平らで、電気があって、いつでも水が出てくるって素晴らしい!

 

なお、この記事をかくにあたっては以下の書籍を参考にしました。

とても面白く、まさしく「世界の見方が変わる」一冊だと思います。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。